hirotophy

あなたの隣の免疫不全系男子

僕を構成するのはいろんな当事者ではない

苦手科目「当事者」

「最初は、ぷれいすの利用者だったんですけど...」

 

そこまで言うと、先生はああそうかという顔をしました。いつもながら、うまくやりとりできない部分です。

 

先日、NPO法人ぷれいす東京の主催で、アムステルダム国際エイズ会議の報告会が開かれました。会場設営のボランティアスタッフとして僕も参加したのですが、打上げの席で登壇者の先生に「どうして君はボランティアをしようと思ったの?」と聞かれたのです。

 

「ぷれいすの利用者だったんですけど」

 

つまり僕は、HIV当事者支援ボランティアをしている理由を「HIVの当事者だから」と答えたわけです。この答え方を僕はよくするのですが、答えておきながら「これ答えになってないじゃん!」といつも思います。たいていの場合、答えを聞いた人は納得してくれている様子です。でも、言った本人はそのたびに後味の悪さを感じています。


僕は、以前からこの「当事者」という言葉が苦手です。自分の言葉として使うときも、他人の言葉として聞くときも、どこか違和感を覚えます。僕がわかっていないのは、いったい何なんだろう…?あれこれ考えてみますが、結局よりどころが見つかりません。

 

たとえば、何か主張をするとき「自分は当事者だ」と言って主張の正当性の根拠にする人がいます。僕はこういう姿勢が好きではありません。ただ、なぜ好きになれないのかは、よくわかりません。

 

そして、矛盾するようですが、こういう態度の背景にあるのかもしれない「当事者なのに置き去りにされた」という不愉快さは、理解できる気がします。僕自身、ドクターや支援者の話を聞きながら「それ、勝手に決めつけないでくださいよ…」と心の中でつぶやくことがあります。

 

別の例として、ぷれいす東京がしているようなHIVの当事者支援活動に参加しようとする非当事者の人を見ると、多くの社会課題がある中で繋がれた縁を嬉しく思う一方、その人たちの活動参加の動機がどこか腑に落ちずにいる自分に気づいたりもします。

 

さらに、この裏返しの構図なのですが、僕自身が何か他の社会活動に「非当事者として」関わることにも、きまって尻込みしがちです。これって偽善じゃないのかな?いつもそんなところで立ち止まってしまいます。

 

「当事者だから」「当事者なのに」「当事者じゃないから」「当事者じゃないのに」

 

「当事者」を足掛かりにして考えるのが、どんどんおっくうになります。そのくせ、いざというときには「当事者です」と言ってごまかしてしまう。ああ、いったい「当事者」ってなんなんだ!僕は、言葉にますます振り回されます。

 

当事者の言葉は「マウンティング」なのか

ツイッターに踊る「当事者マウンティング」というフレーズは、そんな悩める僕の目をひきました。あなたもどこかで見かけたでしょうか。この言葉をめぐって、この夏ツイッターで静かながらも熱い論戦がくりひろげられました。

 

僕の「当事者もやもや」を解消するヒントが、この議論の中にあるかもしれない…。論争の履歴を、ためしにさかのぼってみることにしました。

 

そもそものきっかけは、「現代ビジネス」に掲載された記事だったようです。自分は当事者だと宣言することで、ある人が非当事者よりも強い力を得る場合がある。これは、対話の断絶を生む「当事者マウンティング」になることもあるから気を付けよう。そんな内容です。

 

gendai.ismedia.jp

記事が拡散されると、様々な声があがりました。

 

当事者として「自戒の言葉」にしたい、と表明する人が少なからずいました。その一方で、当事者の発信を「マウンティング」と呼ぶことに懸念を示す人もいました。生きづらさに当事者が声をあげたとき、「それは当事者マウンティングだ」と表現されてしまい、やっとの思いでしぼりだした声を封じ込まれることはないのか、という懸念です。

 

「自戒の言葉」という捉え方。これは、僕が例に挙げた「自分は当事者なんだから」と強調する人たちへの違和感を、ある程度説明してくれる気がしました。ただ、そのカウンターである「マウンティングという表現はいかがなものか」という意見も、もっともだと思いました。少数派に対して「特権を主張するな」と反論する動きは、実際に起きています。多数派と同じ扱いを求めているだけなのに、です。

 

ますます混乱しました。ああ、どうしてこの当事者という言葉は、こんなに扱いづらいのでしょう...。 

 

弱者としての「非当事者」

そんな中、もりあがる「当事者マウンティング」論争のさなかに、僕は文化人類学者の砂川秀樹さんのツイートを見つけました。いつも科学的・人間的な視点で社会課題にアプローチしている砂川さんは、このイシューにどんなコメントをしているんだろう。気になってツイートをのぞいてみると…

 

 

何やらムズカシゲな内容で最初は??という感じでしたが、何度も読み返すうちにハッとしました。

 

力関係。

 

そうなんです。僕は、議論における「当事者」の立場が、「非当事者」の立場よりも優位で正統なものと考えていました。裏を返せば、それは「非当事者が劣位で亜流」という決めつけでもあります。もちろん、そういうバランスになる場合だってあるでしょう。しかし僕は、この力関係を勝手に一般化して、すべての状況に当てはまるものだと考えていたのです。

 

言葉を変えると、僕は弱者(と勝手に決めつけた非当事者)の目線に立ち、強者(と勝手に決めつけた当事者)の立場からのアピールを嫌悪し、警戒していたのです。非当事者として活動することをためらってしまうのも、結局は「強者の前に弱者として立つ」のがいやだったからでした。そして、活動に参加する非当事者の気持ちを素直に想像できなかったのも、「まっとうな代表者じゃないのに」という視点が心の片隅にあったからです。

 

言うなれば「当事者絶対正義」。そのくせ、実名の意見を見るときは、その人の社会的地位や知名度なども勘案しながら意見を拾っていく。あまりにもぴたりと心中を言い当てられた気がして、僕は恥ずかしさでいっぱいでした...。

 

しかし、だとしたら、当事者・非当事者の枠を越えたコミュニケーションで重要なキーになるものって、いったい何なんだろう。僕は、砂川さんのツイートを、祈るような気持ちで読み進めました。

 

あるツイートに、砂川さんの20年前のコラムというものがPDFで添付されていました。ずいぶん古いなあと思いながら開くと....

 

これだ!

 

僕は膝を打ちました。

 

無自覚と自覚のあいだ

 

ご本人の了解をいただいたので、一部を引用させていただくと、内容は次のようでした。

 

私はいまもなお、「当事者」か否かということがポジションにおいて重要な要素の一つであると考えている。 しかし、また同時に、当事者が行うことこそがゲイ/レズビアン・スタディーズであるという立場にも与せず、「当事者」か否かという立場を単純に権力関係に置き換えることに対しても否定的な立場をとる。そのような意味においては、「セクシュアリティを支える諸構造に対する『無自覚』と『自覚』(の間にこそ問題がある)」という言葉を支持したい。

(砂川秀樹 1999「日本のゲイ/レズビアン・スタディーズ」、伏見憲明編『Queer Japan』Vol.1、勁草書房)

 

無自覚と自覚。

 

いままで感じていた僕の「当事者もやもや」を一気にふきとばしてくれる一言でした。

 

その人が当事者か否かというのは、(どこに線を引くかには判断が入ると思いますが)事実に基づく区別です。しかし、当事者をめぐるイシューについて意見をかわすとき大切なのはその事実ではなく、その人が何を知り、どのように認識しているのかという、まさに「自覚」 のほうです。

 

一般に「当事者の意見には重みがある、説得力がある」と言われますが、これはその人が当事者だという事実が担保している説得力ではありません。当事者という立場にいると気づきやすい知識や構造や感情やロジック——つまり自覚があって、その自覚こそが説得力の源泉になるのです。

 

ですから、相手が「当事者である」という事実の前に、非当事者は委縮したり警戒したりする必要はなく、マウンティングと表現してけん制する必要もないのです。自分自身の自覚に納得感があるならば、その自覚を持たない当事者に、非当事者のあなたは意味のある意見を示すことができるはずです。

 

「私は当事者です!」と反論されたら、「そうですか」とだけ答えればいいんだと思います。その当事者の人は、心のどこかで「当事者絶対正義」にとらわれている可能性があります。あなたがそこから自由であるならば、あえて同じ土俵に乗る必要はないでしょう。

 

「当事者の頭越し感」というのも、無自覚/自覚の視点で考えると、自覚がある人の心に無自覚な人が引き起こす問題一般としてとらえなおすことができて、必ずしも非当事者が当事者を頭越しにするという構図が唯一ではないことに気づきます。当事者が当事者を、非当事者が非当事者を、あるいは当事者が非当事者を頭越しにすることだってあるわけです。円滑なコミュニケーションのために、皆が気を付けるべき視点だと言えます。

 

そして、当事者支援活動に参加するということ。これこそ、同じ「自覚」を共有する人がともにする活動であり、当事者か否かという事実基準の区別は一義的に意味を持たないのだと思います。その区別を越えて活動している様子そのものが、スティグマに苦しむ「当事者」の救いになる側面はあると思いますけどね。

 

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僕を構成するいろんな自覚

 

砂川さんのコラムを反芻するうちに、HIVを持つと知って以来、僕は「事実ベースの分類」に振り回されていたんだな…と思うようになりました。

 

僕を構成するのはさまざまな当事者としてのタグ。そこにHIV Infectedという予定外のタグが追加された。これまでずっと、そんな認識を持っていました。

 

でも、それが唯一のとらえ方ではないんですよね。僕を構成するのは、さまざまな自覚。そう考えた方が、今の僕には納得感もあるし、いろんな状況がうまく説明できる気がします。

 

「どうして君はボランティアをしようと思ったの?」

 

次に聞かれたら、きちんと最後まで答えます。

 

最初はぷれいすの利用者だったんですけど、いろんな人に会っていろんな話をしながら、自分がHIVをめぐるいろんなイシューに無自覚だったことに気づきまして…。ある日突然スティグマの張本人になって苦しみながら孤立している人には寄り添う人が必要で、そもそも世の中はそんな苦しみを生み出さない姿であるべきだっていう認識を持つようになりました。ぷれいすには、同じような自覚を持つ人たちが活動していたのと、これからも自分の無自覚にもっと目を向けていきたいという思いから、ボランティアスタッフとして活動するようになりました。

 

ちょっと長いかな…?でも、二年越しでたどりついた一文なので、こんど会ったらぜひ最後まで聞いてくださいね、先生。

 

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やっとただの病気になったのかな

僕がHIV感染を知ってから二年が経ちました。

 

二年前の今頃はこんなだったな、あんなだったな…と思い返しながら、たったの二年しか経っていないことをすごく意外に感じています。もっとずっと昔のことに思えます。僕の気持ちが「あの頃」とあまりにも違うからかもしれません。

 

二年経ってようやく、僕の病気は僕にとって「ただの病気」になりました。

 

ただの病気というと何やら軽い病気のようですが、治療をやめれば確実に死に至る病気。それを重い軽いの基準にするなら、重い病気です。現状で治ることはなく、それを基準にしてもやはり重い病気です。進行を抑える薬は高価、それを一日一回きまった時間に飲まなければならず、数か月に一度は決められた病院で採血し、決められた医師の診察を受けなければならない。手間がかかるという意味でも、軽い病気とは言えません。

 

もっと言えば、薬の長期服用の副作用は未知数、進行を抑えこんだ状態が長期化することの影響も未知数。どんな突然変異が起きるかも未知数。わからないことだらけという面からも、軽い病気ではないように思います。

 

にもかかわらず僕が「ただの病気」と言っているのは、病気自体が軽くなったという意味ではなく、病気であること以上の「色」が自分の心からようやく取れてなくなったという意味です。

 

病気を知った直後の僕の気持ちは、ちょうど一年前に公開されたNPO法人バブリングの僕のインタビューに詳しく載っています。

hirotophy.hatenablog.jp

 

要約すると…

  • 自分の人生はもう終わりだ。
  • 今までの人間関係、会社や友達も全部なくなってしまうんだ。
  • 血が汚れてしまった。親に申し訳ない。

みたいな気持ちでいっぱいでした。

 

ただ、よく見てみると、これって全部「病気そのもの」に関する話じゃないんです。死が怖い、苦しみや痛みが怖い、手術が不安、そういう話ではない。それじゃ何なんだというと、これこそが僕が病気に付けていた「色」なんだと思います。僕は、病気そのものではなく、そこに付けた色に苦しめられていた。

 

つまりは、偏見です。

 

二年を経て、やっとこの「色」が取れてきたように思います。ようやく僕は、ただの病気として病気に向き合うことができるようになりました。

 

けっこう手こずったな…笑

 

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このブログ「HIROTOPHY」は、僕が病気を知ってから一年後に始めたもので、いまちょうど一周年。これから二年目に入ります。ようやく病気の色がなくなりはじめ、少しはなれた場所から「色」を客観的に見つめる視点も持てるようになったことは、僕にとっては嬉しい変化です。

 

僕はHIVを持っています。でも、少なくともいまの時点で、僕はこのブログを「HIV陽性者として」書いているわけではないように感じています。

 

自分がHIVを持っていることを知って悩み、それを契機に新たな関心事や人に出会い、だんだんと変化(成長?)してきた僕・ヒロトとして僕はブログを書いていて、そんな僕の新たな関心事の一つが、HIVなんだと思います。

 

ちょっとめずらしいバックグラウンドを持った会社員・ヒロトのブログとして、これからもHIROTOPHYを読んでもらえたら嬉しいです。 

カミングアウトを受け入れるのは誰か

LGBTのカミングアウトって、僕らみたいな「平凡な会社員」がやってこそ意味があると思うんです。

 

バーで隣り合わせた人が、そんなことを言いました。なんで会社員なの?と聞いたら、彼はこう答えました。

 

アクティビストの人とか、ゲイバーのママみたいな人って、自分の責任で多様な人とつながって仕事してるから、カミングアウトのリスクや敷居がそこまで高くないと思うんです。でも、会社員って一つの組織に依存しつづけなきゃならないじゃないですか。唯一の依存先を失うかもしれないって考えたら、簡単には言い出せない。だからこそ、そんな人たちがカミングアウトして受け入れられることって大切だと思うんです。

 

なるほどな...と思いました。

 

僕も会社員で、ゲイで、それを隠していた時期もあります。彼の言葉には、共感するところがありました。

 

もちろん会社員が「平凡」なのかという問いは残りますし、カミングアウトのしやすさを単純に比較するのも難しいでしょう。

 

ただ、会社相手のカミングアウトに特有のハードルというのは、確かにあるように思います。

 

会社員にとっての会社。それは、自分が所属し、唯一の給料を受け取っている場所。カミングアウトをして万が一失敗すれば、自分の居場所と収入源をいちどに失いかねません。

 

そんな会社組織が追求するものは、あくまでも「協調」や「合理性」。「でもすごくいい人なんですよ」といった声は、「私情」として片付けられがちです。

 

会社にカミングアウトすることや、それを受け入れられたり拒絶されたりすることは、個人に対するカミングアウトとは若干違った意味を持つ。ずいぶん前から、僕はそんなことを感じていました。

 

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誤解をおそれずざっくり整理すれば、誰かのカミングアウトを個人が受け入れるのは、「私の大切なあなただから」という話に結局は行き着くのかなと。

 

これに対して、カミングアウトを会社が受け入れるのは、「それを否定することに合理性がなく、協調を乱すとも認められないから」みたいなロジックで、発想というか、判断基準が少し違うように思います。

 

どちらが重要か…という話ではありません。社会の受入れは両方の側面から進む必要があるんだと思います。

 

ただ、昨今のLGBTブームの中で、個人へのカミングアウトが注目される一方、会社の話はなかなか見えてこない。隣の彼もそのあたりがもどかしかったのかもしれません。

 

HIVも同じこと。「私たちは受け入れます」という表明が、組織からもっと出てきてくれるといいなと思います。

 

もっとも、こちらはゲイに比べると、個人間のカミングアウトや受入れの事例すら多く知られていません。でも、それは表立って語られないだけで、実際には意外と多くの事例が確実に積み重なりつつあるようにも感じられます。

 

臨界点は割とすぐにやってきて、受入れも一気に進むんじゃないか。そんな楽観的な期待もしています。

かなりフツーです

HIVを持っている人に、強い恐怖心を感じている人もいるみたいです。でも、実際は「自分でHIVを持っていることがわかっている人」について、そんなに...と言いますかまったく怖がる必要ないです、という話を今日は書こうと思います。

 

自分がHIVを持っているとわかっている人...。この言葉ちょっと長いので、この記事では「PLHIV」と略します。People Living with HIV<HIVとともに生きる人たち>の頭文字です。

 

「そもそも、そんな人周りにいないし、関わったこともない」

 

そう思っている人もいると思います。

 

でも、実際には、身近にフツーにいます。あなたは、すでにPLHIVと一緒に暮らしているんです。僕は東京在住のPLHIVの一人ですが、毎日あたりまえのように電車やバスに乗り、会社で仕事をして、ランチは同僚と中華料理を食べ、仕事帰りには服を選び、スタバで友達とフラペチーノを飲み、ジムで運動して、コンビニでお菓子を買います。

 

2018年現在、日本のPLHIVの大部分は、それまで自分が暮らしてきた町でそれまで通りの平凡な暮らしをしています。そして、ご存知のように「死なない病気(よく考えるとこれも変な言葉ですが)」になったけれど流行は止まっていないので、PLHIVの数は増え続けています。日本の場合、毎年1500人ずつ新しい報告があって、累計で3万人の報告件数になっています(昨年・2017年の一年間では1407件の新規報告があったそうです)。

 

そんなふうに当たり前に暮らしてたら、俺らが危ないだろ!うつったらどうするんだよ!

 

そうなんです。誰もがそう思っていたときがありました。HIVを持った人の隔離や移動制限が、世界中で検討されました。日本も同様でした。

 

ですが...、それは今から30年以上前、いわゆる「エイズパニック」の時代の話。もしあなたが今もそう考えているなら、相当にキャッチアップが遅れています。

 

「感染する」ことに焦点を当てた場合、2018年の日本でPLHIVの誰かと一日中ずっといっしょに過ごしたところで、それが原因であなたがHIVに感染することはありません。同じコップで水を飲んでも、同じお風呂に入っても、同じ蚊に刺されても、何かの流れでキスすることになっても、極端な話コンドームなしでアナルセックスしたって、HIVはあなたにうつりません。

 

だからこそ、PLHIVの人は普通に街の中でみんなと一緒に暮らしているわけで、別に特別にふてぶてしいとか強がっているとか、そういう話ではないのです。

 

ひとつ客観的な視点を紹介します。

 

日本の法律に感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)というものがあります。感染力や感染経路、重篤性などの特徴に応じて、既知の感染症の病原体を5つの類型に分けて、国や医療機関が取るべき対応を定めています。

 

第一類が「国民の生命に極めて重大な影響を与える病原体」で、エボラ出血熱などはこの分類です。そして第二類、第三類と数字が増えるごとに深刻さが小さくなり、第四類は動物が媒介するもの(動物への措置が併せて必要なもの)。そして、第五類は国民への情報提供が必要なもので、インフルエンザなどがこの分類です。第一類から第四類までは、即日国に報告をする必要があり、入院や就業制限などの措置が取られる場合がありますが、第五類は一週間以内に報告すればよく、個人名の届けも不要で、特別な措置もなされません。

 

HIVは、どの分類でしょう?

 

第五類です。鳥インフルエンザやSARSとは違って、現在のHIVは国が登場しなければ感染が予防できないような「恐怖のウイルス」ではないのです。

 

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あるウイルスがあなたに感染するかどうか。それは、いくつかの要素で決まります。

 

そもそもの前提として、ウイルスには特有の感染経路がそれぞれにあります。HIVは、HIVを含む体液が相手の粘膜や血管に接触することで感染します。インフルエンザのような空気感染や、O157のような経口感染はしないので、マスクや手洗いは関係ありません。

 

一般にウイルス感染を決定づける要素は、次の3つだと言われます。

 

1. 露出したウイルスの量
2. ウイルスに露出した時間
3. ウイルス自体の感染力

 

感染力の強い大量のウイルスに長時間露出すれば、感染が成立する可能性が高まります。逆に、感染力の弱い少量のウイルスに短時間露出しても、感染が成立しません。

 

PLHIVがあなたにウイルスをうつすおそれがない理由も、まさにここにあります。

 

HIVがあると知った人は、日本ではほぼ全員が治療を受けています(治療を受けつづけないでいるとエイズになってしまいますから...)。そして、あなたが出会うPLHIVの誰かの治療は、成功しているはずです(成功していなかったら、体がフラフラで街に出たりできないでしょう)。治療が成功した場合にウイルスの量がどのくらい減るかと言いますと、血液からHIVが検出されなくなります。そう、そこまで治療は進んでいるんです。僕自身、治療を開始して数か月して以降ずっとHIVは血液から検出されていません。

 

え!?じゃあ治ったんじゃないの?

 

そんな声が聞こえてきそうですが、これが難しいところ。血液から検出はされなくなるものの、身体の奥深くに潜伏しているウイルスは現在の医学ではなくせません。他人への感染は成立せず、本人の免疫が弱まることもない(むしろ回復していく)けれど、治療をやめることはできない。これが「治らない」と言われる所以です。

 

さらに、HIVは実は感染力がとても弱く、たとえば医療従事者の針刺し事故で感染が成立する確率は0.3%と言われています。これは、ウイルス性肝炎の100分の1くらいのへなちょこぶりで、しかもウイルス量が爆発的に多い無治療の人でこの数字ですから、PLHIVの場合だとゼロリスクと言ったほうが正確なんじゃないかとも思ってしまいます。

 

HIVは、体外で空気に触れてからの生存時間も短く、消毒もかんたん。同じ感染症の病原体でも、ノロのような屈強なウイルスとは真逆のひ弱さです。

 

いろいろ書いてきましたが、要するに...

 

心配しないで大丈夫です。PLHIVの誰かがあなたの目の前にいても、怖がる必要はぜんぜんありません。

 

ひょっとしたら、一度でもPLHIVの誰かが実際に目の前に現れれば、直感的にわかってもらえることも多いのかもしれません。言い出せないからわからない。わからないから怖いまま。怖がられるから言い出せない…。そんなループから抜け出せずに足踏み状態なのが、今の日本の現状なのかもしれません。

 

僕もPLHIVの一人です。

 

僕と同じ鍋をつついても、僕と同じプールで泳いでも、僕に頭をなでられても、あなたはHIVに感染しません。

 

そして、僕と同じ職場で仕事をしていても、当たり前ですが、あなたがHIVに感染することはありません。たまに「もし大量出血したらどうなんだ」という反応があるらしいですけど、そもそも仕事中に大量出血するような場面があるのかって話ですし、百歩譲ってそんな状況になったらまず僕の出血死のほうを心配してほしいです…。そして、治療が成功しているHIV陽性者である僕の血にあなたの傷口が触れて、それが原因で感染したら、ぜひ国際エイズ会議で発表してください。まずありえません。先ほども言いましたけど、治療が成功しているPLHIVの血からはHIVは検出されないんです。

 

僕は事務職をしています。しかし、仮に僕が料理人でも、保育士でも、美容師でも、看護師でも、HIVについて僕がお客さんや同僚に迷惑をかけることはないです。

 

もちろん、社会福祉士でも。

 

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漠然とした古いイメージを根拠に、不安や嫌悪感を感じていませんか。この機会に、ぜひ古い情報のアップデートをしてください。僕を含めPLHIVは、あなたが思っているよりずっとフツーの人で、すでにフツーに暮らしていて、ずっとリスクがありません。そして、多様な職種で、すでにバリバリ仕事をしています。まあ、僕のことを実際に知っている人は、何あたりまえのこと言ってるんだと思うだけでしょうけど 笑

 

それでもまだ不安...というあなたには、東京都が出している公式の「職場とHIV/エイズハンドブック(H26年版H25年版)をとどめに紹介しておきます。他の社員と何も変わらず接すればいいだけ...という説明や事例が書かれていますけれど、これですらすでに5年前の古い資料です。

 

あまりにのんびりしていると、気が付いたらあなたの意識と感覚だけが時代に取り残されているかもしれないですよ。

 

ーーー

 

ちなみに

 

もう感染しなくなってるなら、どうして新規感染の報告が減らないんだ?と思った人もいると思います。そこは、この記事の冒頭で説明した言葉の定義を思い出してもらえると、整理できると思います。この記事で言っているPLHIVというのは、「自分がHIVを持っていると自分でわかっている人」です。

 

医学的にHIV Infectedと分類される人(俗にいうHIV陽性者)は、HIVを持っていることに「自分で気づいている人(治療を受けている人)」と「気づいていない人(無治療の人)」に分かれます。

 

もうお分かりですね。

 

ここを考えていくと、結局はHIV検査の話と差別の話になるんですけど、そこは以前の記事で書いているので、よかったら読んでみてください。

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その挑戦は無謀か

うまく書ける自信がなくて、基本的に時事ネタは書かないことにしている。でも、今回のニュースは僕にとって大切なテーマを含んでいるので、思い切って書いてみることにした。

 

登山家の栗城史多さんが、エベレスト山の下山途中に亡くなった。専門家の人たちから「あの実力であのルートは無謀」と指摘が出る中での訃報だった。

 

無謀な挑戦。

 

僕の好きな言葉に、「プロ野球選手になりたいと思わなかった人で、プロ野球選手になった人はいない」というのがある。

 

言うまでもなくプロ野球選手になるのはとても難しく、なれる可能性は限られている。ただ、「なりたいと思わなかったけど、プロ野球選手になりました」なんて人は存在しないわけで、プロ野球選手になるためには、いくらそれが無謀だとわかっていても「プロ野球選手になってやる!」という思いが絶対に必要だ。

 

「できる」と信じてチャレンジしなければ、成功するはずがない。何かに挑戦したいけれど立ち向かう勇気が出ないとき、僕はよくこのプロ野球選手の件を心の中で繰り返している。

 

挑戦はいつも無謀、無謀だから挑戦だ。

 

一方、挑戦することで得るものもあれば、失うものもある。いわゆるリターンとリスクだ。

 

挑戦して失うもの。それは、挑戦に注ぎ込んだ時間やお金かもしれないし、そこに存在していた様々な機会なのかもしれない。挑戦の種類によっては、自身の信頼や大切な人との人間関係を失うのかもしれない。

 

そして、自分の健康や命を失いかねない、そんな挑戦も存在する。エベレストの難コースを単独無酸素で登るのは、まさにこれだ。

 

今回の件について、無謀だったと指摘するコメントを見るにつけ、二つの相反する思いがよぎる。

 

一つは、挑戦を擁護したい気持ち。確かに無謀なんだろうけど、無謀だからこそ挑戦だし、無難なルートや失敗のないルートだけを選ぶことことが彼にとって本当にベストなのかどうかは、他人が一般論で決められることではない気がする。

 

ただ、その一方で、こんな無茶はやめようよ、という気持ちもある。もう十分に冒険家としての「表現」は見させてもらった。今後は、失うものが命ではない、他のチャレンジを栗城さんには見せてほしかった。

 

挑戦って何だろう。無謀って何だろう。

 

許される無謀と許されない無謀があるのだろうか。それは、単なる「無謀さの程度」の問題なんだろうか。

 

HIV陽性の人たちが集まった場で、病気のカミングアウトについて話を持ち出すと、「いまの状況でそれは無謀だ」と言われることが少なからずある。その人たちは、「頑張って」隠し通さなきゃ、と口々に言う。

 

今回の栗城さんの訃報を通じて僕がいろいろ考えてしまうのは、僕自身の「挑戦」と彼の生き様をどこかで重ね合わせてしまうからかもしれない。

 

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挑戦って、結局はその人にとっての「意味」の話なんだろう。「挑戦すること」の意味。そして、「挑戦しないこと」の意味。

 

挑戦して失うかもしれないものが時間やお金だったら、挑戦しないことは「今ある時間やお金を守ること」を意味する。そして、「挑戦して得られるもの(もっと大きなお金とか、強い自己肯定感とか)が欠けている現状を、甘んじて受け入れること」も同時に意味するだろう。

 

そう考えると、もし挑戦して失うものが命なら、挑戦しないことの意味のひとつは「生きて、愛する人を笑顔にすること」なのかもしれない。

 

冒険家に限らず、「命がけの生業」はいろいろある。その人たちが命を賭して挑みつづける意味は、きっと僕らが外野からあれこれ言うべきことではない。

 

ただ、今回の件をきっかけに、僕たち一人ひとりが自分がいま何に挑戦していて、その挑戦をすること/しないことが自分にとってどんな意味を持つのか、いまいちど考えをめぐらせ、友人や家族と話しあってみるのもいいんじゃないかと思う。

 

それは他でもない栗城さんが、自分の挑戦する姿を世の中に発信し続けながら、僕らに伝えようとしていたメッセージなのかもしれないから。