僕を構成するのはいろんな当事者ではない
苦手科目「当事者」
「最初は、ぷれいすの利用者だったんですけど...」
そこまで言うと、先生はああそうかという顔をしました。いつもながら、うまくやりとりできない部分です。
先日、NPO法人ぷれいす東京の主催で、アムステルダム国際エイズ会議の報告会が開かれました。会場設営のボランティアスタッフとして僕も参加したのですが、打上げの席で登壇者の先生に「どうして君はボランティアをしようと思ったの?」と聞かれたのです。
「ぷれいすの利用者だったんですけど」
つまり僕は、HIV当事者支援ボランティアをしている理由を「HIVの当事者だから」と答えたわけです。この答え方を僕はよくするのですが、答えておきながら「これ答えになってないじゃん!」といつも思います。たいていの場合、答えを聞いた人は納得してくれている様子です。でも、言った本人はそのたびに後味の悪さを感じています。
僕は、以前からこの「当事者」という言葉が苦手です。自分の言葉として使うときも、他人の言葉として聞くときも、どこか違和感を覚えます。僕がわかっていないのは、いったい何なんだろう…?あれこれ考えてみますが、結局よりどころが見つかりません。
たとえば、何か主張をするとき「自分は当事者だ」と言って主張の正当性の根拠にする人がいます。僕はこういう姿勢が好きではありません。ただ、なぜ好きになれないのかは、よくわかりません。
そして、矛盾するようですが、こういう態度の背景にあるのかもしれない「当事者なのに置き去りにされた」という不愉快さは、理解できる気がします。僕自身、ドクターや支援者の話を聞きながら「それ、勝手に決めつけないでくださいよ…」と心の中でつぶやくことがあります。
別の例として、ぷれいす東京がしているようなHIVの当事者支援活動に参加しようとする非当事者の人を見ると、多くの社会課題がある中で繋がれた縁を嬉しく思う一方、その人たちの活動参加の動機がどこか腑に落ちずにいる自分に気づいたりもします。
さらに、この裏返しの構図なのですが、僕自身が何か他の社会活動に「非当事者として」関わることにも、きまって尻込みしがちです。これって偽善じゃないのかな?いつもそんなところで立ち止まってしまいます。
「当事者だから」「当事者なのに」「当事者じゃないから」「当事者じゃないのに」
「当事者」を足掛かりにして考えるのが、どんどんおっくうになります。そのくせ、いざというときには「当事者です」と言ってごまかしてしまう。ああ、いったい「当事者」ってなんなんだ!僕は、言葉にますます振り回されます。
当事者の言葉は「マウンティング」なのか
ツイッターに踊る「当事者マウンティング」というフレーズは、そんな悩める僕の目をひきました。あなたもどこかで見かけたでしょうか。この言葉をめぐって、この夏ツイッターで静かながらも熱い論戦がくりひろげられました。
僕の「当事者もやもや」を解消するヒントが、この議論の中にあるかもしれない…。論争の履歴を、ためしにさかのぼってみることにしました。
そもそものきっかけは、「現代ビジネス」に掲載された記事だったようです。自分は当事者だと宣言することで、ある人が非当事者よりも強い力を得る場合がある。これは、対話の断絶を生む「当事者マウンティング」になることもあるから気を付けよう。そんな内容です。
記事が拡散されると、様々な声があがりました。
当事者として「自戒の言葉」にしたい、と表明する人が少なからずいました。その一方で、当事者の発信を「マウンティング」と呼ぶことに懸念を示す人もいました。生きづらさに当事者が声をあげたとき、「それは当事者マウンティングだ」と表現されてしまい、やっとの思いでしぼりだした声を封じ込まれることはないのか、という懸念です。
「自戒の言葉」という捉え方。これは、僕が例に挙げた「自分は当事者なんだから」と強調する人たちへの違和感を、ある程度説明してくれる気がしました。ただ、そのカウンターである「マウンティングという表現はいかがなものか」という意見も、もっともだと思いました。少数派に対して「特権を主張するな」と反論する動きは、実際に起きています。多数派と同じ扱いを求めているだけなのに、です。
ますます混乱しました。ああ、どうしてこの当事者という言葉は、こんなに扱いづらいのでしょう...。
弱者としての「非当事者」
そんな中、もりあがる「当事者マウンティング」論争のさなかに、僕は文化人類学者の砂川秀樹さんのツイートを見つけました。いつも科学的・人間的な視点で社会課題にアプローチしている砂川さんは、このイシューにどんなコメントをしているんだろう。気になってツイートをのぞいてみると…
コミュニケーションにおける力関係、社会に対する発言の持つ力は、当事者/非当事者だけでなく、その人の職業、社会的ポジション、性別、その場の構成などによって大きく変わるのだから、その中で当事者性を主張することの意味をとらえないのは雑すぎるのではないかと正直思う。
— 砂川秀樹 (@H_Sunagawa) September 5, 2018
何やらムズカシゲな内容で最初は??という感じでしたが、何度も読み返すうちにハッとしました。
力関係。
そうなんです。僕は、議論における「当事者」の立場が、「非当事者」の立場よりも優位で正統なものと考えていました。裏を返せば、それは「非当事者が劣位で亜流」という決めつけでもあります。もちろん、そういうバランスになる場合だってあるでしょう。しかし僕は、この力関係を勝手に一般化して、すべての状況に当てはまるものだと考えていたのです。
言葉を変えると、僕は弱者(と勝手に決めつけた非当事者)の目線に立ち、強者(と勝手に決めつけた当事者)の立場からのアピールを嫌悪し、警戒していたのです。非当事者として活動することをためらってしまうのも、結局は「強者の前に弱者として立つ」のがいやだったからでした。そして、活動に参加する非当事者の気持ちを素直に想像できなかったのも、「まっとうな代表者じゃないのに」という視点が心の片隅にあったからです。
言うなれば「当事者絶対正義」。そのくせ、実名の意見を見るときは、その人の社会的地位や知名度なども勘案しながら意見を拾っていく。あまりにもぴたりと心中を言い当てられた気がして、僕は恥ずかしさでいっぱいでした...。
しかし、だとしたら、当事者・非当事者の枠を越えたコミュニケーションで重要なキーになるものって、いったい何なんだろう。僕は、砂川さんのツイートを、祈るような気持ちで読み進めました。
あるツイートに、砂川さんの20年前のコラムというものがPDFで添付されていました。ずいぶん古いなあと思いながら開くと....
これだ!
僕は膝を打ちました。
無自覚と自覚のあいだ
ご本人の了解をいただいたので、一部を引用させていただくと、内容は次のようでした。
私はいまもなお、「当事者」か否かということがポジションにおいて重要な要素の一つであると考えている。 しかし、また同時に、当事者が行うことこそがゲイ/レズビアン・スタディーズであるという立場にも与せず、「当事者」か否かという立場を単純に権力関係に置き換えることに対しても否定的な立場をとる。そのような意味においては、「セクシュアリティを支える諸構造に対する『無自覚』と『自覚』(の間にこそ問題がある)」という言葉を支持したい。
(砂川秀樹 1999「日本のゲイ/レズビアン・スタディーズ」、伏見憲明編『Queer Japan』Vol.1、勁草書房)
無自覚と自覚。
いままで感じていた僕の「当事者もやもや」を一気にふきとばしてくれる一言でした。
その人が当事者か否かというのは、(どこに線を引くかには判断が入ると思いますが)事実に基づく区別です。しかし、当事者をめぐるイシューについて意見をかわすとき大切なのはその事実ではなく、その人が何を知り、どのように認識しているのかという、まさに「自覚」 のほうです。
一般に「当事者の意見には重みがある、説得力がある」と言われますが、これはその人が当事者だという事実が担保している説得力ではありません。当事者という立場にいると気づきやすい知識や構造や感情やロジック——つまり自覚があって、その自覚こそが説得力の源泉になるのです。
ですから、相手が「当事者である」という事実の前に、非当事者は委縮したり警戒したりする必要はなく、マウンティングと表現してけん制する必要もないのです。自分自身の自覚に納得感があるならば、その自覚を持たない当事者に、非当事者のあなたは意味のある意見を示すことができるはずです。
「私は当事者です!」と反論されたら、「そうですか」とだけ答えればいいんだと思います。その当事者の人は、心のどこかで「当事者絶対正義」にとらわれている可能性があります。あなたがそこから自由であるならば、あえて同じ土俵に乗る必要はないでしょう。
「当事者の頭越し感」というのも、無自覚/自覚の視点で考えると、自覚がある人の心に無自覚な人が引き起こす問題一般としてとらえなおすことができて、必ずしも非当事者が当事者を頭越しにするという構図が唯一ではないことに気づきます。当事者が当事者を、非当事者が非当事者を、あるいは当事者が非当事者を頭越しにすることだってあるわけです。円滑なコミュニケーションのために、皆が気を付けるべき視点だと言えます。
そして、当事者支援活動に参加するということ。これこそ、同じ「自覚」を共有する人がともにする活動であり、当事者か否かという事実基準の区別は一義的に意味を持たないのだと思います。その区別を越えて活動している様子そのものが、スティグマに苦しむ「当事者」の救いになる側面はあると思いますけどね。
僕を構成するいろんな自覚
砂川さんのコラムを反芻するうちに、HIVを持つと知って以来、僕は「事実ベースの分類」に振り回されていたんだな…と思うようになりました。
僕を構成するのはさまざまな当事者としてのタグ。そこにHIV Infectedという予定外のタグが追加された。これまでずっと、そんな認識を持っていました。
でも、それが唯一のとらえ方ではないんですよね。僕を構成するのは、さまざまな自覚。そう考えた方が、今の僕には納得感もあるし、いろんな状況がうまく説明できる気がします。
「どうして君はボランティアをしようと思ったの?」
次に聞かれたら、きちんと最後まで答えます。
最初はぷれいすの利用者だったんですけど、いろんな人に会っていろんな話をしながら、自分がHIVをめぐるいろんなイシューに無自覚だったことに気づきまして…。ある日突然スティグマの張本人になって苦しみながら孤立している人には寄り添う人が必要で、そもそも世の中はそんな苦しみを生み出さない姿であるべきだっていう認識を持つようになりました。ぷれいすには、同じような自覚を持つ人たちが活動していたのと、これからも自分の無自覚にもっと目を向けていきたいという思いから、ボランティアスタッフとして活動するようになりました。
ちょっと長いかな…?でも、二年越しでたどりついた一文なので、こんど会ったらぜひ最後まで聞いてくださいね、先生。
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