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あなたの隣の免疫不全系男子

その挑戦は無謀か

うまく書ける自信がなくて、基本的に時事ネタは書かないことにしている。でも、今回のニュースは僕にとって大切なテーマを含んでいるので、思い切って書いてみることにした。

 

登山家の栗城史多さんが、エベレスト山の下山途中に亡くなった。専門家の人たちから「あの実力であのルートは無謀」と指摘が出る中での訃報だった。

 

無謀な挑戦。

 

僕の好きな言葉に、「プロ野球選手になりたいと思わなかった人で、プロ野球選手になった人はいない」というのがある。

 

言うまでもなくプロ野球選手になるのはとても難しく、なれる可能性は限られている。ただ、「なりたいと思わなかったけど、プロ野球選手になりました」なんて人は存在しないわけで、プロ野球選手になるためには、いくらそれが無謀だとわかっていても「プロ野球選手になってやる!」という思いが絶対に必要だ。

 

「できる」と信じてチャレンジしなければ、成功するはずがない。何かに挑戦したいけれど立ち向かう勇気が出ないとき、僕はよくこのプロ野球選手の件を心の中で繰り返している。

 

挑戦はいつも無謀、無謀だから挑戦だ。

 

一方、挑戦することで得るものもあれば、失うものもある。いわゆるリターンとリスクだ。

 

挑戦して失うもの。それは、挑戦に注ぎ込んだ時間やお金かもしれないし、そこに存在していた様々な機会なのかもしれない。挑戦の種類によっては、自身の信頼や大切な人との人間関係を失うのかもしれない。

 

そして、自分の健康や命を失いかねない、そんな挑戦も存在する。エベレストの難コースを単独無酸素で登るのは、まさにこれだ。

 

今回の件について、無謀だったと指摘するコメントを見るにつけ、二つの相反する思いがよぎる。

 

一つは、挑戦を擁護したい気持ち。確かに無謀なんだろうけど、無謀だからこそ挑戦だし、無難なルートや失敗のないルートだけを選ぶことことが彼にとって本当にベストなのかどうかは、他人が一般論で決められることではない気がする。

 

ただ、その一方で、こんな無茶はやめようよ、という気持ちもある。もう十分に冒険家としての「表現」は見させてもらった。今後は、失うものが命ではない、他のチャレンジを栗城さんには見せてほしかった。

 

挑戦って何だろう。無謀って何だろう。

 

許される無謀と許されない無謀があるのだろうか。それは、単なる「無謀さの程度」の問題なんだろうか。

 

HIV陽性の人たちが集まった場で、病気のカミングアウトについて話を持ち出すと、「いまの状況でそれは無謀だ」と言われることが少なからずある。その人たちは、「頑張って」隠し通さなきゃ、と口々に言う。

 

今回の栗城さんの訃報を通じて僕がいろいろ考えてしまうのは、僕自身の「挑戦」と彼の生き様をどこかで重ね合わせてしまうからかもしれない。

 

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挑戦って、結局はその人にとっての「意味」の話なんだろう。「挑戦すること」の意味。そして、「挑戦しないこと」の意味。

 

挑戦して失うかもしれないものが時間やお金だったら、挑戦しないことは「今ある時間やお金を守ること」を意味する。そして、「挑戦して得られるもの(もっと大きなお金とか、強い自己肯定感とか)が欠けている現状を、甘んじて受け入れること」も同時に意味するだろう。

 

そう考えると、もし挑戦して失うものが命なら、挑戦しないことの意味のひとつは「生きて、愛する人を笑顔にすること」なのかもしれない。

 

冒険家に限らず、「命がけの生業」はいろいろある。その人たちが命を賭して挑みつづける意味は、きっと僕らが外野からあれこれ言うべきことではない。

 

ただ、今回の件をきっかけに、僕たち一人ひとりが自分がいま何に挑戦していて、その挑戦をすること/しないことが自分にとってどんな意味を持つのか、いまいちど考えをめぐらせ、友人や家族と話しあってみるのもいいんじゃないかと思う。

 

それは他でもない栗城さんが、自分の挑戦する姿を世の中に発信し続けながら、僕らに伝えようとしていたメッセージなのかもしれないから。