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あなたの隣の免疫不全系男子

1番目の90:世界エイズデー

世の中には「〇〇の日」がごまんとある。その日が近づくとどこかで聞いたような食傷気味のスローガンが叫ばれる。がん検診に行きましょう。戦争は悲惨です。大切な子供たちに愛を。

 

そんなことわかってる。

 

僕らは忙しいのだ。すべてのデーに目を向けるなんて無理だし、結論わかりきっている話に興味がわくわけもない。

 

世界エイズデーは、僕にとってまさにそんな「デー」の一つだった。どうせ検査とコンドームの話でしょ?知ってるよ。そう言って一度も関心を寄せなかった。

 

そして結局、僕はHIVに感染した。

 

もちろん僕がエイズデーに関心を持っていたら感染しなかったのかと言われれば、それはわからない。ただ、初めてエイズデーに目を向けて、気づいたことがひとつある。

それは「デー」は「知る日」というより「考える日」だということ。

 

もし聞き飽きたメッセージが繰り返されているなら、それは訴えられている内容が未だ実現できずにいるという反証。がん検診に行こうと叫ばれつづけながらもあなたが一向に重い腰をあげないのは、どうしてなのか。がんデーには、それを考えてみる。

 

もし聞きなれないメッセージが発信されているなら、それはあなたの認識の何かがアップデートされていない証拠。今年の「世界こどもの日」のユニセフのテーマは「KidsTakeOver(子供が世界をジャックする)」。あなたが勝手に思い描いていたスローガンっぽいものと、何が違うのか。世界こどもの日には、それを考えてみる。

 

考え始めれば、どうしたって考える道具としての知識が必要になってくる。そのとき初めて、知識にアクセスすればいい。まあ、このあたりは、発信側もメッセージの示し方の工夫が必要なんだと思うけど。

 

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今日12月1日は「世界エイズデー」。

 

いろんな標語が発信されている中、あなたに「考えるデー」を過ごしていただけるきっかけとして、「90-90-90」という言葉を紹介したい。

 

「90-90-90」は、UNAIDSが掲げるHIV感染症の行動目標で、

 

  1. HIVを持っている人の90%が自分がHIVを持っていること(HIVステータス)を知っていて、
  2. その人たちの90%が持続的に治療にアクセスできていて、
  3. さらにその人たちの90%がHIVが血液から検出されない

 

という状態を世界レベルで作ることを目指す内容だ。設定された目標達成の期限は2020年、三年後である。

 

さて、あなたは現状をどう予想するだろう。今の世界や日本で「90-90-90」はどのくらい達成されていると思うだろう?

 

世界規模では、残念なことに3つとも目標には遠く及んでいない。1・2・3と番号が進むにつれて60%・50%・38%と達成率は落ちていく(これが何を表しているのか?を考えるのも、考えごたえがあるテーマだと思う)。

Source :90-90-90: treatment for all | UNAIDS

 

一方の日本では、2(持続的治療)と3(ウイルス抑制)は、余裕で達成できている。90を95に引き上げても、2番と3番はクリアできていると言う人さえいる。

 

つまり、いまの日本では

  • ひとたびHIV陽性であるとわかれば、ほぼすべての人が専門的な治療にアクセスしつづけられる体制が整っていて、
  • ひとたび治療にアクセスすれば、ほぼすべての人がウイルスが血液から検出されない状態になるほど有効な治療が提供されている

 

ということだ。予想は合っていただろうか。

 

※ ここまで読んで「HIVが検出されなくなるような治療がそんなに広く普及してるんだ!」 という点に驚いている人もいるだろう(2年前までの僕を含む)。そんなあなたは、ぜひその驚きを大切にしながら読み進めてほしい。

 

ここで、1番の90(自覚)に注目したい。今の日本では、最初の90だけが未達成だ。

 

どのくらい未達成なのか。最新の調査によると、自分のHIVステータスを知っている人は、陽性者全体の「80%程度」。つまり、HIVを持っている人の5人に1人が、その事実に気づいていない。

www9.nhk.or.jp

 

「自分がHIV陽性であることに気づいていない陽性者」の存在は、HIV感染予防を目指す社会にどんな影響を与えるのか。治療へのアクセス・ウイルス抑制の実現が極めてスムーズなのと対照的に、陽性者が「自分は陽性」と知ることが妨げられているのは、どうしてか。

 

日本はどうすれば1番目の90を達成できるのだろう。今年のエイズデーと週末、ぜひ一度考えてみてもらいたい。

 

考えにいきづまったとき参考になる記事を紹介しておく。あなたの考えを深めるのにきっと役立つ。

life.letibee.com

 

今年のエイズデーの国内スローガンは「UPDATE!エイズのイメージを変えよう」。ここまでお付き合いいただいたあなたなら、仮に僕の投げた問いに答えが見つかっていないとしても、実はとっくにこのスローガンを実践できていたりするのだと思う。

12月1日は「世界エイズデー」|厚生労働省

BPM-戦争を知らないHIV陽性者

この秋、僕はTOKYO AIDS WEEKS日本エイズ学会に初めて参加しました。

 

学会が初めてなのはともかく、TOKYO AIDS WEEKSまで初めてというのは都心に暮らすゲイとしてちょっとはずかしい話です。それは、病気への無関心というより、おそらくは社会への無関心でした。今さらでも自覚できてよかったのかもしれないけど。

 

参加したプログラムの中でひときわ強く印象に残ったのが、来春に日本公開予定のフランス映画「BPM」の試写会でした。BPMは、今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品です。創設初期のACT-UP Paris(HIV陽性者の支援団体)を舞台に、病と時代に翻弄されながらも声を上げ続けた人たちの生き様を描いています。

 

当時、エイズにはまだ治療がありませんでした。HIV感染はエイズ発病を意味し、発病は近い死を意味する、そんな時代でした。作品の中で「エイズは戦争」という言葉が幾度となく登場するのですが、それが決して誇張された表現ではない、本当に凄まじい時代。

 

エイズを食い止め、HIVを検出限界未満まで抑え込む多剤併用療法が確立したのは1996年のこと。それ以前の世の中にはHIVに感染した人の命を救う手立てがなく、本人も周囲も死の訪れを待つことしかできませんでした。映画の中でも、ACT-UPの若い仲間たちは医療からも社会からも見放されたまま一人、また一人と帰らぬ人となっていきます。

 

苦しむ人を前に医療者が何もできない状況なんてありえるのかと思いますが、当時は本当にそうだったようです。それはパリばかりではなく、ここ東京も同じでした。映画の設定と同じ時期に自らのパートナーさんをエイズで亡くした大塚隆史さんは、試写会後のトークで次のように言っていました。

 

「当時東京でいちばん知見が集まっていた病院に行ったんですけども、先生に言われました。できることは何もありません。ってね」

 

遅々として新薬を実用化させない製薬会社への憤り。有効な予防手段を講じない行政への苛立ち。無関心な社会への怒り。映画の中の当事者や支援者の置かれた状況はまさに戦争で、彼らを突き動かしているのは怒りでした。

 

そして、戦争のさなかの恋、セックス。

 

HIVが人と人を分断し、つないで、また分断していく。そんな様子が、低音の効いた4ビートのBGMに乗って静かに、赤裸々に描かれていました。

 

この映画は、HIV陽性であることを1年前に知ったばかりの僕をいろいろな意味で動揺させました。

 

映画の中で当事者たちが抱えていた生々しい恐怖と焦り、救いが見えない絶望と悲しみ。それは、治療も支援もあるいまを生きる僕が心の奥に潜ませている不安や恐怖を遠慮なくえぐり出すように迫ってきました。正直、映画を見ているのがとてもつらかったです。

 

そして、映画の中の状況と僕らがいま置かれた状況とのあいだの、あまりにも激しいギャップ。

 

毎日普通に会社に行って食事をして遊んで笑いながら暮らす僕は、本当に映画の中の彼らと同じ病気を持つ人間なのだろうか。

 

病院に行けば有効な治療が豊富に準備され、行政も製薬会社も僕らにサポーティブ。社会にも、関心を持ち正しく理解しようとアプローチしてくれる人がたくさんいる。

 

すべてが真逆です。

 

そんな恵まれた環境の中で、僕らは病気のことがバレないようにと、ただそれだけに必死になりながら生きています。当時、もっと生きたいと願いながら為す術もなく旅立っていった人たちは、今の僕らを見て何を思うだろう。僕らに何を言いたいだろう。

 

見終わった後も、ずっとそんなことを考えていました。 

 

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僕は、最近になってHIVを持つことを知った、言うなれば戦争の後に生まれた「戦後生まれ」です。

 

当時を知る人は、今の陽性者にこんな思いを抱くのではないでしょうか。あのときに比べれば本当に幸せだ。だから、みんな心穏やかに過ごせればそれがいちばんだと。

 

しかし、僕らにはいまがすべて。戦争との比較対象としてではなく、過去と切り離していまを見れば、戦後生まれの僕らにもきっと僕らの「怒り」があるはずです。それはきっと、先輩たちから引き継ぐものではない、僕たちの内部から沸き起こる現代の怒りです。

 

戦後生まれの役割と怒り。それを探し、そこから社会を変えていくことが、30年前に戦争でこの世を去った人たちに僕らが報告できることなのかもしれません。

 

BPMの日本での一般公開は、2018年3月の予定。ぜひたくさんの人に見てほしい作品です。

bpm-movie.jp

この映画の感想はいろいろな人が発信していますが、おススメは次の3つ。ぜひ合わせて読んでみてください。

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最後まで読んでくれてありがとう!

小さな町の小さな皮膚科

僕がHIV陽性の告知を受けたのは、今から1年半前。保健所でも、検査場でも、大病院でもない、町の小さな皮膚科医院でした。

 

簡易なスクリーニング検査と正確な確定検査の二回の検査を受けたので、本当の告知は二回目の確定検査の結果を聞いたときです。でも、HIVというものが初めて自分事の世界に現れたスクリーニング結果の告知は、明らかに僕の二番目の人生の幕開けでした。

 

ついさっきまで属していた社会から弾き飛ばされた

 

皮膚科に行ったのは、左胸に発疹ができたからでした。近所の皮膚科がそろって休診だったので、開いている皮膚科を探して訪問しました。

 

ひと目で「帯状疱疹」だと診断されました。簡単な問診、薬ですぐ治るという説明を受けた後、先生から「念のために」とHIV・梅毒の検査を勧められました。

 

そういえば10年近く受けてないな…。この機会に受けとくか。深く考えることもなく了承し、採血をすませました。

 

数日後。

 

薬のおかげで発疹はほぼ消えていました。今日でもう病院行くのも終わりかな、などと考えながら、会社に行く前に皮膚科に寄りました。

 

ひと通り診察を終えた先生は、おもむろに一枚のハガキを取り出しました。

 

「血液検査の結果なんですが、つい先ほど届きまして」 そうだ、すっかり忘れていた。


「梅毒は陰性なんですが。……HIVが擬陽性と出ています」

 

「はい。……え?」

 

最初は事態をのみこめず、しばらくしてから全身の血の気がスーッと引きました。頭の中が真っ白で、必死に状況を整理しようとするのですが、何をどう整理すればいいのか見当もつきません。


「まだ決まったわけではありません。確定検査を受けなければわかりませんので、大きな病院にこちらから紹介状を書きます」
「……先生。僕は……どうしたらいいんでしょう」
「とにかく、確定検査を受けてください。今の段階では何とも言えません」

 

先生は、大病院に行きなさいの一点張りでした。

 

突如ふりかかった、まったく予想していなかった一大事。全身を貫く「とんでもないことが起きてしまった」という戦慄。そのとき、目の前の先生しか僕には頼れる人がいませんでした。しかし、唯一の相談相手であるその人は、ここじゃない、他に行けと頑なに繰り返すばかり。


ふらふらとクリニックの外に出ると、ハンバーガーショップがありました。とにかく何か食べなくちゃ。中に入ってハンバーガーセットを頼みましたが、まったく口にする気になりません。

 

スマホを取り出し、「HIV」を検索しまくりました。冷静になろうとすればするほど、いろんな思いがぐちゃぐちゃになってあふれてきます。道で血を吐いて死んでしまうんじゃないか。石を投げつけられながら日陰者として一生を終えるしかないんだろうか。両親にはもう合わせる顔がない。せっかく健康に生んでくれたのに……。

 

窓の外には、いつもと変わらない街並みがありました。いつもと変わらないのに、その街は透明な膜で遮られた遠い別世界に思えました。ついさっきまで属していたと思っていた社会から、僕は弾き飛ばされたんだ。そう感じたとき、僕は「僕側の世界」に僕以外誰もいないことに気づきました。

  

HIVステータスを知ってから今までの月日の中で、いちばん何も知らず、いちばん不安で、そしていちばん一人ぼっちな時間でした。

 

僕の身体の中で起きている「何か」に誠実に向き合ってくれた先生

 

その後、僕はいろいろな人に出会うことになりますが、行く先々で「その皮膚科はすばらしい」と絶賛されました。

 

考えてみれば、皮膚科の先生は僕の皮膚症状を治せばいいのであって、帯状疱疹の薬を処方するだけでその任務は簡単に果たせたはずです。なぜ帯状疱疹を発症するほど体が弱ってしまったのか、そこまで踏み込んで突き止める責務は、皮膚科の先生におそらくは求められません。

 

原因を明らかにすべくHIV検査を勧めることにしても、先生にとっていいことは何もありません。いきなり性感染症を疑われた僕は気分を害するかもしれないし、結果が陰性だったら(その場合が多いんでしょうけど)患者さんの信頼を失うかもしれない。逆に予想が当たって結果が陽性だったら、それはそれでHIV陽性告知という、おそらくお医者さんならだれでも避けたい役回りが自分に回ってきてしまう。

 

先生の立場だけ考えれば、検査を勧めることで面倒ばかり起きそうです。

 

それでもあえて検査を勧めてくれたのは、僕の身体で起きている「何か」に先生が誠実に向き合ってくれたからに他なりません。そして、その真摯な姿勢に、僕の命は救われたのです。


もうひとつ気づいたこと。それは、あの日僕がHIV陽性者としてど素人だったなら、先生もまたHIV陽性を告知する医療者としてきっと初心者であっただろうということ。この病気に対応する経験が豊富ではないと自認した先生は、中途半端なサポートで状況を混乱させたりせず、すみやかに専門医に繋げることがいちばん誠実な対応だと判断したのでしょう。

 

見捨てられてなんかいなかった。見捨てずにいてくれたからこそ、いま僕はここで息をして、心臓を鼓動させていられる。先生にお礼が言いたい。元気に暮らしている姿を見てもらいたい。

 

何だかんだで忙しい告知後の日々を過ごしながら、僕はいつしかそう考えていました。

 

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やっと伝えられた気持ち

 

秋になり、体調も気持ちも落ち着いてきたころ、僕は皮膚科医院をふたたび訪れました。

 

「失礼します」
「こんにちは、ヒロトさん」

 

明るい診察室。笑顔の先生と看護師さん。こんな部屋で、こんな先生だったのか・・・。あの日の僕の記憶に変なバイアスがかかっていることがわかって、あらためて自分が受けたショックの大きさを実感しました。よく頑張ったな、あの日の自分。


「先生、ごぶさたしています。その節は、ほんとうにありがとうございました!」
「いえいえ。その後いかがですか」
「おかげさまであれからすぐ病院に行って、指標疾患を発症することもなく無事に治療を始められて、今はウイルス量も検出限界以下になりました」
「そうですか。CD4はどれくらいですか」 

 

なんと先生は、業界用語だと思われる「CD4」を知っていました。僕は、もう少し詳しく、あの日以降の僕のたどった経過を説明しました。


「そうですか。本当によかったですね」 説明を聞きながら、先生は何度も何度も、本当によかったと繰り返しました。


ずっと言えずにいた気持ちを、やっと言葉にして直接伝えられたこと。そして、元気な僕の姿を見て先生が嬉しそうに笑ってくれたこと。「ありがとう」「よかったね」そんな当たり前のやりとりが、無性に嬉しく感じられた時間でした。

 

1年半ぶりに聞けた一言

 

実は、この日以降、僕は1年間ほどこの皮膚科に通院することになります。

 

挨拶だけして帰るものアレなので何か薬でももらおうと思い、前から気になっていたイボを診てもらったら、定期的な処置が必要だとのことで、二週間ごとに通院することになったのです。途中から別の治療も始めてもらい、通院はさらに長期化しました。

 

そして先週、ついに診察の最終日を迎えました。

 

「ヒロトさん、これならもう大丈夫でしょう。最後の薬を出しますので、それをつけおわったら終了です」
「ほんとですか。ヤター!」

 

1年にわたって通い続けたこの小さなクリニックは、もはや僕には「告知を受けた場所」ではなく、「いつもの皮膚科」になっていました。待合室で小さな子供たちとにらめっこしたり、受付のお姉さんたちのおしゃべりを観察したり(僕はゲイなので、下心は何もないです)、先生に処置が痛いと駄々をこねてみたり、それを「痛くないですよ(笑)」とあっさりかわされてみたり・・・。皮膚科での時間は、僕の週末の日常にすっかり組み込まれていました。

 

もうここに来ることもないのか。そう思うと、ちょっと寂しい気がしました。HIV陽性者が「陽性の告知を受けた場所に来なくなるのが寂しい」っていうのもなかなか斜め上を行くシチュエーションだな。そう思うと、ちょっと可笑しくもありました。

 

「ヒロトさん」


診察室を出ようとすると、先生が僕を呼び止めました。


「何かあったら、またいつでも来て下さい」

 

それは、1年半前に僕が聞きたくて聞けなかった一言でした。ひょっとしたら、先生にとってもそれは、1年半前に僕に伝えられず心にわだかまっていた一言だったのかもしれません。


外に出てふと見ると、ハンバーガーショップがありました。そうか、長い第一幕がいま終わったんだな。ふとそんな思いが胸をよぎります。

 

歩いて駅前に出ると、大きなレッドリボンが見えました。奇しくも僕が初めてHIVに出会ったこの街で、次の第二幕がいま始まろうとしています。

 

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1990年のパリの僕 〜 映画「BPM」試写会に応募して

HIVの感染を知ってからしばらくのあいだは、自分の病気のことで手一杯だった。

 

なので、HIVといえば、それは「自分のHIV」のことだった。すなわち「2016年に感染を知り、東京の大病院で治療を受けているゲイ男性」としてのHIV。寿命は人並み、毎日元気、病院親切、1日1錠、ゲイ友いっぱい・・・。HIVはそんな病気だった。

 

でも、いつごろからだろう。あたりを見回す余裕が出てきて新たな実感を感じるようになった。これが唯一のHIVの姿ではないこと。条件が一つ違うだけで、状況が変わることに。

 

もし僕が違う国に生まれていたら、もし違う性別や性指向を持っていたら、もし違う経路で感染していたら、もし10年前に感染していたら、もし1年遅れて気づいていたら・・・。それだけで、僕のキーワードは違うものになっていた。

 

今の日本では、それでも僕のキーワードは「マジョリティ」なのだろうけれど、今の日本でそこに属さない人だって当然いる。国や時代を少し変えれば、僕と違うキーワードで説明されるHIVを持って暮らす人・暮らした人は、たくさんいる。

 

もちろん、その人は僕ではない。でも、それは他でもない、前提条件がひとつ違うにすぎない僕自身だ。

 

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映画の試写会に応募した。今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した「BPM」というフランス映画だ。

 

1990年、HIV・AIDS旋風が吹き荒れるフランス・パリを舞台に若者たちの恋を描いた作品で、来年の3月に日本でもロードショーの予定だが、これに先立ってTOKYO AIDS WEEKS 2017で試写会をおこなうらしい。

 

aidsweeks.tokyo

 

いまの僕の暮らしの中で、HIVはすごいことではない。

 

だからこそ、90年代初頭の、治療法はおろか病気の正体すらわからなかった時代のHIVの話を聞くたび、強烈な衝撃を受ける。現代なら薬さえ飲めばあっというまに血液から検出されなくなるこのウィルスが、ほんの30年前に人がバタバタと死んでいく恐ろしい病として人間社会を翻弄していた事実を前に、言葉を失う。

 

僕がいまこうやって普通に暮らしているのも本当に偶然なのだと、あらためて思う。この映画で描かれた1990年のパリの若者の話は、たまたま感染時期が異なる僕の話だ。

 

30年かけて先人が築き上げた医療技術、支援体制、ネットワーク。そのすべてに対する感謝の思いを、あらためて胸にきざむ。

 

そして、時代が、国がたまたま違う「僕の話」を、これからも聞いていきたい。今の自分よりつらい境遇にある人を見て自分が安心したいだけの身勝手な思いなのだろうかと自問もしたけれど、そんな立ち止まりや迷いまでひっくるめた2年目の僕の正直な思いに立って、僕は「僕の話」を一つひとつ聞いていこうと思う。

 

試写会、当選しますように!

 

TOKYO AIDS WEEKには今回はじめて足を運ぶのだが、映画の上映のほか、番組の公開録画、Out of JAPANの写真展、ゲイの合唱ミニコンサート、トークセッション、調査報告、シンポジウムなど、結構いろんなイベントが準備されている。

 

あなたも11月24日(金)・25日(土)・26日(日)に中野駅に降り立ってみよう。大きなレッドリボンをつけた中野区役所が、あなたを迎えてくれる。

 

aidsweeks.tokyo

 最後まで読んでくれてありがとう!

新井先生とアライの話

「不可思議Wonderboy」というアーティストをご存知知だろうか。ポエトリーリーディングという、ラップの変型判のような音楽のパフォーマーなのだが、友人に教えられて以来すっかりはまっている。

 

一人また一人と仲間たちが社会に迎合していくなか、自分の夢を信じ追いつづける若者の孤独を鮮やかに歌い上げる不可思議さん。彼の無防備でみずみずしいメッセージは、熱い思いにフタをして生きる賢明な大人たちの胸にするどく突き刺さる。

 

あの頃って何にでもなれる気がしてたよなあ / いや実際頑張ればなんにでもなれたか / でもこうやっていろんなことが終わってくんだもんなって / いや始まってすらいないか

<不可思議Wonderboy 「Pellicule」>

 

先日、バブリングのトークイベントで中学校の国語教師である新井淑則先生の話を聞いた。シュッとした紳士的な身なり、よく響く声でユーモアたっぷりに話す姿はまさに先生然としていて、やっぱりプロは違うな…と感心しながらトークに耳を傾けた。

 

新井先生は目が見えない。

 

教職に就いて数年後に、網膜剥離で視力を失った新井先生。いちどは職を追われたが、10年をかけて再び中学校の教壇に立ったという。24時間テレビでもドラマとして取り上げられた話で、知っている人も多いだろう。

 

2時間にわたるトークには示唆深い話がてんこもりだったが、何より印象深かったのは新井先生が失意の底で教職への復帰を心に決めたときのエピソードだった。

 

目が見えなくなり家に引きこもって塞いでいた新井先生に、先輩の当事者は「あんま・鍼灸・マッサージ」の資格をとるよう勧める。「みんなそうやって頑張っている。君も頑張れ」と言われるが、新井先生にはその「頑張る」が自分事として感じられない。そんな中、後に恩師と仰ぐことになる弱視の教師に「新井先生も必ず教壇に戻れる」と言われ、自分が頑張るべきことはこれだと気づく。しかし、そのような前例はほとんどなかった。

 

この話に、僕は強い既視感というか、シンパシーのようなものを感じた。同じような経験が僕にもある。

 

自分がHIV陽性だと知って以降に出会った当事者のほとんどは、自分がポジティブであることを徹底的に隠して生きていた。そして、これからもバレないように「頑張ろう」と言う。

 

僕には、その「頑張る」がピンとこなかった。頑張るっていうのは、病気のことに劣等感を持たず、病気のことも話せる友人関係を持ち、オープンに仕事をして、恋愛もする、そんな日常を作ることだと思った。でもみんなは「そんなのは絶対に無理」と考えている様子だ。僕は戸惑い、寂しさを感じた。

 

同じ立場の人たちが語る努力に共感できない。自分が考える努力にも共感してもらえない。「目が見えなくなったらあんま師」と当事者までもが信じて疑わない状況で、新井先生もまた僕と同じような戸惑いや寂しさを感じたのではないだろうか。仮に僕が視力を失い「オレたちにはこれが相場だ」とあんま師の資格を勧められたら、僕もまた新井先生と同じような違和感を感じるような気がする。

 

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でも、その先は?周りとまったく違う方向を向いて、自分の夢を目指すために決意して立ち上がることが僕にできるだろうか。

 

正直、自信がない。

 

それは、他でもない今の僕の状況がそうだからだ。「隠すを頑張るなんてオカシイ」と言いながら、結局のところ大半の知人友人にHIVを隠して暮らしている。あたかも「僕の夢はこれじゃない」とうそぶきつつ、あんま師の勉強を黙々と続ける視覚障害者の人さながらだ。

 

僕は、すべてを伝えて社会から疎外されるのが怖い。

 

病気のせいで疎外されるのが怖いのではない。僕自身は、HIVを持っていることをただの病気のひとつ、それもそこまで騒ぐほどの病気ではないと思っている。でも、社会全体が、当事者まで巻き込んで「最強にとんでもない病気」だと信じ切っている中、大したことじゃないんだと正直に声をあげ「変人扱いされること」が怖いのだ。

 

「僕はとんでもない病気を持っていて、悩んでいて、でも前向きに生きようと頑張ってます」。そう発信してこそ非当事者も当事者も安心して受け止めてくれることを、僕は知っている。そして、そのように表明してこそ「すごいね、大変だね、頑張ろうね」と慈愛と励ましに満ちたレスポンスがスムーズに返ってくることも、僕は知っている。

 

当事者は、社会から疎外されない確証を得たいがために「悲惨なHIV陽性者像」を提供する。非当事者は、人格者としての憐れみの心を(その一瞬だけ)抱く喜びを得たいがために「悲惨なHIV陽性者」像を消費する。

 

この構図が、いまの日本で圧倒的に安定していることを、僕はイヤなほどよく知っている。だからこそ、「それコメディですよ?」と反論したら、本気でつまはじきにされそうで、怖いのだ。

 

僕は強くない。情けなくなるほど弱い。

 

では、新井先生は強かったのだろうか。

 

トークの中で、新井先生は「自分は強くない。むしろ弱い人間だ」と、再三にわたり強調していた。そして「教壇に戻ろう」と言ってくれた周りの人たちがいてくれたからこそ長い道のりを歩くことができたと語っていた。

 

健常者から当事者までもを巻き込んだ「視覚障害=あんま師」の固定観念の中にあって、新井先生の「思い」はマイノリティだった。その思いを抱き続ける道のりは、想像以上に孤独だっただろう。

 

だからこそ、その少数派たる思いに寄り添い、同じ方向を向いて一緒に歩んでくれた仲間たちの存在がとても大きかった。仮にご自身が言うように先生が本当に弱い人間だとしたら、その弱い新井先生までをも立ち上がらせるほどの大きな力を、孤独に寄り添った同伴者は与えてくれたのだ。

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アライ(Ally)という言葉を聞く。少数者に対する理解者という意味で使われ、僕もそう解釈していた。

 

しかし、実はこれは表層的な理解なのかもしれない。「マイノリティな属性」を理解し受け入れる人がアライなのではなく、背景にあるものが何であれ、その人の「マイノリティな思い」に寄り添う人こそがアライだとは言えないだろうか。

 

夢をめざす新井先生の孤独の傍らには、アライのみんながいた。そして、新井先生は自分の夢をかなえ、その事実を世間が知ることで、新井先生の思いを少数派せしめていた世間の固定観念にはヒビが入った。固定観念に飲み込まれていたすべての人に、変化がもたらされた。いまや、新井先生の思いはマイノリティではない。

 

あたらめて、僕の周りにどんなマイノリティな思い・孤独があるのか考えてみる。僕も、誰かの孤独に寄り添えるアライになろうと思った。同じように孤独の中に立つ一人の弱い人間として。

 

前述の不可思議Wonderboy君のパフォーマンスを見て、詩人の谷川俊太郎はこう評した。

 

イギリスの哲学者で“世の中には2種類の行為がある”と言った人がいてね、彼は“世の中のすべての行為を、Death Avoiding Behavior (死回避行為)とLiving Behavior (生命的行為)”に分けて説明したんだ。僕の解釈では、現代人の多くは生活優先のDeath Avoiding Behaviorで生きてしまっているんだけど、不可思議くんのラップはまさにLiving Behaviorを体現している。だから感じてしまうものがあるんじゃないかな。

From: Living Behavior 不可思議/wonderboy 人生の記録

 

あんま師というDeath Avoiding Behaviorを採らず、Living Behaviorを貫いた新井先生の歩みは、いまは亡き不可思議くんの叫びと、世代を超えてシンクロする。もし不可思議くんが生きていたら、新井先生のトーク聞いてほしかったな。

 

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新井先生の著書を買って読んでみた。中学生でも読めるように、わかりやすく書き下ろされている。そう。そもそも障害者の話って、大人だけが語る特別なイシューじゃない。僕が中学生のとき、こんな本があって、勧めてくれる大人がいてくれたらよかったのにな。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう!