HIROTOPHY / 会社員ヒロトの免疫低めブログ

東京在住の会社員ヒロトのブログです。

薬物依存症:ケンジ君の疑問、それは僕の疑問

ずいぶん日が経ってしまったが、11月に参加したイベントのことを書こうと思う。今日は、2017年の最後の日。筆が遅いのも、ここまでくると考えものだ...。2018年は、一つの記事にあれもこれも詰め込みすぎず、もっと頻繁にあなたに読んでいただけるよう、工夫していきたいと思う。

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TOKYO AIDS WEEKSの「ナルコティクス アノニマス・オープンミーティング」に参加してきた。

 

ナルコティクスアノニマスというのは、薬物依存症の人たちの自助グループの名前だ。通常のミーティングには当事者の人たちが集まるが、今回のオープンミーティングは関心があれば誰でも参加OKということで、足を運んだ。

 

HIV/AIDSの催しに薬物依存のプログラムがあるのは、薬物注射がHIVの感染経路の一つだからだ。「HIVとともに生きる」がテーマなら、薬物依存とHIVの両方とつきあっていく人のことも考える。「HIVの予防」がテーマなら、薬物依存の人へのアプローチも考える。両分野は、もともと関連が深い。

 

しかし、僕が関心を持ったのは、それとはちがう切り口だった。

 

薬物依存症の人を見る僕の視線から抜け落ちていたもの

最近まで、僕は薬物依存に無関心だった。ただひたすら、社会の「一般的な認識」で薬物依存を眺めていた。

 

ワイドショーのあれである。薬物に手を出すのは、人として恥ずべきこと。手を出したら深く反省するのが当然。二度と使わないと悲壮な決意を表明すべき...。薬物依存者は、まるで「遠慮なくディスっていい人」のような存在だった。

 

最初は気が付かなかった。この「出会ったことがない(と僕は勝手に思いこんでいるが、実際にはどこかで出会っているのだろう)人たち」に向けられる世間の視線が、HIV陽性者に向けられる歪んだそれと、よく似ていることに。

 

きっかけは、高校時代からの友人・メガネ女子の一言だった。

 

「薬物依存の人は病人なんだよ」

 

ハッとした。

 

そう、薬物依存は、薬物依存「症」。犯罪であるだけではなく、いや犯罪である前に、これは病気なのだ。それも、完治しない病気。

 

その視点がまったく抜け落ちていたことに僕は愕然とし、なんて酷いことを今まで考えていたのかと恥ずかしさを覚え、偏見に無自覚だったことにただただうなだれた。

 

アディクトの人たちの気持ちを想像するほどに、僕や僕らと似ているように思えた。完治しない病気を抱えてしまった絶望、社会から忌まわしい存在と見られる悲しさ、自業自得と非難されるくやしさ、内部スティグマの苦しさ、そして周囲の理解が得られようと得られまいと病気と戦い続けなければならない孤独。

 

病気は「ただの病気」にさせてもらえず、当事者は「ただの病人」にさせてもらえない。

 

薬物依存症の人たちが、どうやって自分の中の偏見を克服し、どうやって世間の偏見に向き合っているのか、話を聞いてみたかった。僕自身の視線が、自分がどう行動することでどう変容していくのか、確かめたかった。

 

それは、他でもないHIV陽性者に向けられる視線が、どんな状況でどう変わるのか知りたいという気持ちにつながっていた。
   

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直接話を聞けば偏見がなくなると思っていたけれど

ところが、2時間のプログラムを聞き終えて感じたのは、自分の「視線の変化」というより、「無知の自覚」とでも言うべき気持ちだった。
 

予想していた悲壮な決意は、壇上から語られなかった。3人のスピーカーさんたちは一様に「今でも薬やってたほうが楽しいなと思うんですけどね、ハハハ」と明るく笑い、でも薬をやらない今の生活が幸せだし、せっかく続いてるから薬を断ち続けている、と穏やかに話した。

 

そう、アディクトの人にとって重要なのは「決意」ではなく「継続」なのだ。だから、反省や気合より、肩の力を抜くことこそが必要。僕の毎日の服薬を考えれば、すぐにわかる。強い決意や悲壮感なんてない。日常に溶け込んでいるからこそ、一日も欠かさず続いている。ちょっと想像すればすぐに気づくことを、そのちょっとの想像を怠って気づかずにいた。

 

薬物をやめ続ける理由も、別に「悪いことだから」ではなかった。薬を使わない毎日のほうが幸せだから、という至極シンプルな理由だった。

 

薬物を始めるまでのストーリーも、もっと奇異で壮絶だと思っていた。しかし、実際に語られた薬物使用のきっかけは、誰もが抱くであろう普通の悲しみや孤独だった。本当に壮絶なのは、薬に操られ自力ではどうにもならなくなっていく、依存症になってからのその人自身の崩壊の過程のほうだった。

 

いかに自分が知らなかったか、いかに自分が考えようとしていなかったか。プログラムが終わり、机の上のアンケートを眺めながら、そんな思いばかりが頭をめぐった。

 

ふと、素朴な疑問がわいてきた。そもそも薬物依存症の人は日本に何人くらいいるんだろう。薬をやめることができたとして、寿命はどのくらいなんだろう。

 

あっ...。

 

この質問を、僕はすでに知っていた。

 

目からウロコで偏見が消えるわけじゃない

数か月前、僕がよく行くバブリングバーに、ケンジ君というスタッフさんが新しく入った。

 

話してみたところ、どうやら彼は僕について事前情報が何もないようだった(他のスタッフのみんなが、それくらい特別ではない属性としてHIVを受け入れてくれている証左であり、ありがたいことである)。

 

二回目に会った時も、同じだった。

 

これじゃ、ケンジ君だけに隠してるみたいになっちゃうな...(他のスタッフさんはみんな、僕のHIVステータスを知っている)。僕は、バブリングのインタビューに出たことがあるとケンジ君に伝えた。

 

スマホを取り出し、ある画面をじっと眺めていたケンジ君は、しばらくすると顔を上げてこう言った。

 

ぜんぜんそういう風に見えませんでした…。

  

後日彼は、陽性者のイメージについて、「具体的な絵こそないものの、見れば一目で区別がつく絶望的で暗い姿をイメージしていた」と話してくれた。 ごくフツーに見える目の前の人が陽性者だったことが、ケンジ君には衝撃だったようだ。

 

そっかーハハハと照れ笑いをしていたら(これを照れ笑いと呼ぶのか定かではないけれど)、ケンジ君は続けてこんな質問を投げてきた。

 

HIVの人って、日本にどのくらいいるんすか?

 

全国で28000人、報告の3割以上が東京都に集中していると説明しながら、「そっか、こういうことが気になるんだ…」と新鮮な驚きを感じていると、一部始終を横で見ていた他の人が聞いてきた。

 

あの...、HIVにかかると、寿命ってどのくらいなんですか。

 

とても興味深かった。漠然としていた陽性者像がリアリティのある隣人の姿に置き換わったとき、彼らが欲したのは「どうするとうつるのか」とか「あなたが感染した原因は」という恐怖ベースの情報ではなく、「そのタグを持った人の位置づけ」をやりなおすために必要な知識だった(ちなみに、治療が効いているHIV陽性者の寿命は、一般の方と変わりません ^^;)。

 

そう、この疑問。

 

三人のアディクトの人が話すのを聞いて、僕が抱いた疑問は、ケンジ君たちが抱いた疑問とまったく同じだった。

 

それは、当事者が「カオナシ」だったとき湧いてこなかった疑問。隣人としてのリアリティが脈打ちはじめて生まれた、ごく基本的で、新鮮な疑問だった。

 

今日の僕は、あの日のケンジ君だ。僕は、何かを見つけた気がした。

 

偏見。

 

それはきっと、「目からウロコ」でパッと消えてなくなるものではない。ウロコが落ちた後「あれ?じゃあこれはどうなんだ?」と新たな疑問が湧き、そこから新たな知識が手に入り、その知識で人の位置づけがやりなおされ、そこでまた気づきに出会う。そうやって、知ると気づくを繰り返しながら、根拠のない認識は少しずつ新しい認識の下に埋もれていく。

 

「偏見に対する偏見」が、少しなくなったのかな。そう思ったら、オマケのようについてきたこの変化こそが、このプログラムに参加して得た何より大切なことのように思えた。

 

薬物依存症のこと、また話を聞けるといいな。

 

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