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あなたの隣の免疫不全系男子

薬物依存症:ケンジ君の疑問、それは僕の疑問

TOKYO AIDS WEEKSの「ナルコティクス アノニマス・オープンミーティング」に行ってきました。

 

ナルコティクスアノニマスというのは、薬物依存症の人たちの自助グループの名前です。普段は当事者の人たちだけが集まるミーティングを開いているそうですが、今回はオープンミーティング、つまり関心があれば誰でも参加できる形で開催されていました。

 

薬物注射はHIVの感染経路の一つで、HIVをめぐる議論の中で薬物を使用する人を意識した話はよく出てきます。薬物使用者向けのHIV予防施策とか、薬物を使用するHIV陽性者の心のケアとか……。

 

でも、今回僕が関心を持ったのは、それとは少しちがった切り口でした。

病気なんだよ

最近まで、僕は薬物依存に特別な関心を持っていませんでした。芸能人が逮捕されたとき、ワイドショーで話のやりとりを眺めるくらいのスタンス。

 

テレビの中の反応は、いつも同じでした。

 

薬物に手を出すのは人として恥ずべきこと。手を出したら深く反省するのが当然。二度と使わないと悲壮な決意を表明すべき...。そんな定型的な文脈の中で、薬物依存症の人はあたかも「遠慮なくディスっていい人」のように語られていました。

 

でも、HIVが自分ごとになってもがき苦しむ中で、ふと気づきました。

 

この「出会ったことがない(と僕は勝手に思いこんでいるけれど、実際にはどこかで出会っているのであろう)薬物依存症の人たち」に向けられる世間の視線が、HIV陽性者に向けられるそれとよく似ていることに。

 

きっかけは、高校時代からの友人・メガネ女子の一言でした。

 

「薬物依存の人は病人なんだよ」

 

ハッとしました。

 

そう、薬物依存「症」。犯罪であるだけではなく、いや犯罪である前に、これは病気。それも、完治しない病気。

 

その視点がまったく抜け落ちていたことに僕は愕然とし、なんて酷いことを今まで考えていたのかと恥ずかしくなり、偏見に無自覚だったことにただうなだれるしかありませんでした。

 

それ以降、アディクトの人たちの気持ちを想像すればするほど、自分と似ているように思ってきました。完治すると言いきれない病気を抱えてしまった絶望、社会から忌まわしい存在と見られる悲しさ、自業自得と非難されるくやしさ、内部スティグマのつらさ、そして周囲の理解が得られようと得られまいと病気と戦い続けなければならない孤独。

 

病気は「ただの病気」にさせてもらえず、当事者は「ただの病人」にさせてもらえない。

 

薬物依存症の人たちが、どうやって自分の中の偏見を克服し、どうやって世間の偏見に向き合っているのか、話を聞いてみたいと思いました。当事者から直接に話を聞いて、僕自身の視線がどう変容するのか確かめたいと思いました。

 

それは、他でもないHIV陽性者に向けられる視線がどんな状況でどう変わるのかを知りたいという気持ちにつながっていました。当事者の話を直接聞いて、偏見がなくなった!そんな経験を期待していたのかもしれません。
   

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僕は知らなかった

ところが、2時間のミーティングを終えて僕が実際に経験したのは、予想とはちがう心の動きでした。
 

そもそも、「薬もう絶対にやりません!」という悲壮な決意は、壇上から語られませんでした。3人のスピーカーさんたちは一様に「今でも薬やってたほうが楽しいなと思うんですけどね、ハハハ」と明るく笑い、でも薬をやらない今の生活が幸せだし、せっかく続いてるから薬を断ち続けている、と話していました。

 

そう、アディクトの人にとって重要なのは「決意」ではなく「継続」だったんです。だからこそ、反省や気合より、肩の力を抜くことが大事。僕の毎日の服薬を考えれば、すぐにわかることです。強い決意や悲壮感なんてない。日常に溶け込んでいるからこそ、一日も欠かさず続いている。

 

ちょっと想像すればすぐに気づくこと。そのちょっとを怠っていたがために、僕は気づけずにいたのでした。

 

薬物をやめ続ける理由も、別に「悪いことだから」ではありませんでした。薬を使わない毎日のほうが幸せだから、という至極シンプルな理由。

 

薬物を始めるまでのストーリーも、僕はもっと奇特で壮絶だと思っていました。ところが、実際に語られたのは、誰もが抱きそうなありふれた悲しさや孤独。本当に壮絶なのは、薬に操られ自力ではどうにもならなくなっていく、依存症になってからの苦しみのほうだったのです。

 

いかに自分が知らなかったか、いかに自分が考えようとしていなかったか。プログラムが終わり、机の上のアンケートを眺めながら、僕の頭にはそんな思いばかりがめぐりました。

 

ふと、素朴な疑問がわいてきました。そもそも薬物依存症の人は日本に何人くらいいるんだろう。薬をやめることができたとして、寿命はどのくらいなんだろう。

 

あっ..….。

 

この質問、僕はどこかで聞いたことがありました。

素朴な疑問

数か月前、僕がよく行くバブリングバーに、ケンジ君というスタッフさんが新しく入りました。

 

話してみたところ、どうやら彼は僕について事前情報が何もないようでした(他のスタッフのみんなが、それくらい特別ではない属性としてHIVを受け入れてくれている証左であり、ありがたいことです)。

 

二回目に会った時も、同じでした。

 

これじゃ、ケンジ君だけに隠してるみたいになっちゃうな...(他のスタッフさんはみんな、僕のHIVステータスを知っている)。僕は、バブリングのインタビューに出たことがあるとケンジ君に伝えました。

 

スマホを取り出し、ある画面をじっと眺めていたケンジ君は、しばらくすると顔を上げてこう言いました。

 

ぜんぜんそういう風に見えませんでした…。

  

後日彼は、陽性者のイメージについて、「具体的な絵こそないものの、見れば一目で区別がつく絶望的で暗い姿をイメージしていた」と話してくれました。 ごくフツーに見える目の前の人が陽性者だったことが、ケンジ君には衝撃だったようです。

 

そっかーハハハと照れ笑いをしていたら(これを照れ笑いと呼ぶのか定かではないけれど)、ケンジ君は続けてこんな質問を投げてきました。

 

HIVの人って、日本にどのくらいいるんすか?

 

全国で28000人、報告の3割以上が東京都に集中していると説明しながら、「そっか、こういうことが気になるんだ…」と新鮮な驚きを感じていると、一部始終を横で見ていた他の人が聞いてきました。

 

あの...、HIVにかかると、寿命ってどのくらいなんですか。

 

意外でした。漠然としていた陽性者像がリアリティのある隣人の姿に置き換わったとき、彼らが欲したのは「どうするとうつるのか」とか「あなたが感染した原因は」という恐怖ベースの情報ではなく、「そのタグを持った人の位置づけ」をやりなおすために必要な知識でした(ちなみに、治療が効いているHIV陽性者の寿命は、一般の方と変わりません ^^;)。

 

そう、この疑問。

 

三人のアディクトの人が話すのを聞いて、僕が抱いた疑問は、ケンジ君たちが抱いた疑問とまったく同じものでした。

 

それは、当事者が「カオナシ」だったとき湧いてこなかった疑問。隣人としてのリアリティが脈打ちはじめて生まれた、ごく基本的で、新鮮な疑問。

 

今日の僕は、きっとあの日のケンジ君でした。

知ると気づくの繰返し

偏見。

 

それはきっと、「目からウロコ」の驚きで、瞬時に消えてなくなるものではないんだと思います。

 

ウロコが落ちた後「あれ?じゃあこれはどうなんだ?」と新たな疑問が湧き、そこから新たな知識が手に入り、その知識で人の位置づけがやりなおされ、そこでまた気づきに出会う。そうやって、知ると気づくを繰り返しながらだんだんと偏見はちがう目線に変わっていくんだと思います。

 

「偏見に対する偏見」が、少しなくなったのかな。そう思ったら、オマケのようについてきたこの変化こそが、このプログラムに参加して得た何より大切なことのように思えました。

 

薬物依存症のこと、また話を聞けるといいな。