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あなたの隣の免疫不全系男子

2018年、僕は戻ってきた僕のために走ろう

はてなブログの今週のお題「2018年の抱負」について書こう。

 

実のところ、新年の抱負は特にないのだけれど(1年という区切りで個人的な目標を立てることに意味を感じていない…)、あらためて「いま何がしたいんだろう」と考えてみたら、いま最大の関心事は「僕自身」だった。もっと健康で、幸せで、充実した時間を過ごしたいと考えている。

 

そんなの当たり前だろ!と言われそうだが、僕にとっては当たり前ではないのだ。むしろ、関心が「ただの僕」にきちんと戻ってきたことが興味深くすら感じられる。

 

一昨年の夏

 

僕は、自分のHIVステータスが陽性だと知った。そして、いちばんの関心事は自分の病気になった。

 

正確に言うと、「自分の病気」と言うより「病気の自分」が関心事だった。ついさっきまで、僕は「ただの僕」だった。それが突然「僕=病気」になってしまったのだ。無関心ではいられない。

 

僕は四六時中、大嫌いな「病気の僕」のことばかり考えていた。治療薬の劇的な進歩で、死ぬ心配はおろか寿命が縮まる心配もなく、一日一錠飲む薬には激しい副作用もなく、健康な人と何も変わらない普通の生活を続けているにもかかわらず…。

 

しばらくすると、「病気の自分」と「周りの人」とのつながりが関心事になってきた。通院中の歯医者さん、いちばん最近付き合っていた元彼、高校からの友人たちと、少しずつカミングアウトをしていった。

 

やがて、自分と同じような他人、つまり「病気である誰か」へと、僕の関心は広がっていった。ちがう国に住む誰か。子供だったりお年寄りだったりする誰か。女性である誰か。異性愛者である誰か。血液製剤で感染した誰か。治療法がないころ感染して今はいない誰か。これから感染する未来の誰か。

 

このころから徐々に、病気は「僕」ではなく「病気」として抽象化されていった。HIVと社会の関わりに関心が出てきて、フォーラムやセミナーがあれば聞きに行き、インタビューがあれば受け、NPOのボランティア活動を開始して、日本エイズ学会にも参加した。ブログツイッターを始め、バブリングSOARなど横軸で考える団体にも関心を持った。

 

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そして迎えた2018年。

 

あらためて「今年の抱負は?」と聞かれ、僕は自分の関心事が「自分自身」に戻ってきたことを知った。

 

HIVの告知直後も、頭の中は「僕」のことでいっぱいだった。ただ、あのときの僕は忌まわしい存在、消えてしまいたい「病気としての僕」だったけれど、今の僕は大切に思える存在、もっと幸せになるべき「僕である僕」だ。

 

そう、いつのまに、僕は「ただの僕」に戻っていた。ちょっとびっくりして、そして嬉しかった。

 

病気を僕から切り離し「なかったこと」にしたように見えるかもしれないが、実際の感覚はむしろ逆で、今まで外部に全身投影して受け入れを拒んできた病気を自分の一部として受け入れられたからこそ、僕は「ただの僕」に戻れた。

 

誰もがそうであるように、僕という人格を構成する要素は星の数ほどあり、そのひとつとして免疫機能不全という病気はおさまっている。僕を説明する言葉の中に、HIVは含まれる。でも「僕=病気」じゃないし、そもそもHIV陽性者なんて人格はなく、僕はやっぱり「ただの僕」だ。

 

2018年の僕の抱負。

 

それは、「ただの僕」として、免疫機能不全という要素も含んだ「ただの僕」として、もっと健康で、幸せで、充実した時間を過ごすことだ。

 

これからも僕はHIVを軸とした活動に参加するだろうけど、「大嫌いな自分たちの不幸を緩和するための活動」ではなく、「大切な自分たちの幸せを最大化するための活動」としてコミットしたい。その面からも、まずは僕自身の日々が笑顔で生き生きとしていなければ始まらない。

 

「で、ヒロトくん具体的には何をするの?」

 

そのあたりは順次ブログで発信していくので、ぜひ当ブログ「HIROTOPHY」を毎週チェックしてもらいたい!読者になるのもいいかもしれない…〔プロモーション〕

 

みなさん、今年もよろしく!

 

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薬物依存症:ケンジ君の疑問、それは僕の疑問

TOKYO AIDS WEEKSの「ナルコティクス アノニマス・オープンミーティング」に行ってきました。

 

ナルコティクスアノニマスというのは、薬物依存症の人たちの自助グループの名前です。普段は当事者の人たちだけが集まるミーティングを開いているそうですが、今回はオープンミーティング、つまり関心があれば誰でも参加できる形で開催されていました。

 

薬物注射はHIVの感染経路の一つで、HIVをめぐる議論の中で薬物を使用する人を意識した話はよく出てきます。薬物使用者向けのHIV予防施策とか、薬物を使用するHIV陽性者の心のケアとか……。

 

でも、今回僕が関心を持ったのは、それとは少しちがった切り口でした。

病気なんだよ

最近まで、僕は薬物依存に特別な関心を持っていませんでした。芸能人が逮捕されたとき、ワイドショーで話のやりとりを眺めるくらいのスタンス。

 

テレビの中の反応は、いつも同じでした。

 

薬物に手を出すのは人として恥ずべきこと。手を出したら深く反省するのが当然。二度と使わないと悲壮な決意を表明すべき...。そんな定型的な文脈の中で、薬物依存症の人はあたかも「遠慮なくディスっていい人」のように語られていました。

 

でも、HIVが自分ごとになってもがき苦しむ中で、ふと気づきました。

 

この「出会ったことがない(と僕は勝手に思いこんでいるけれど、実際にはどこかで出会っているのであろう)薬物依存症の人たち」に向けられる世間の視線が、HIV陽性者に向けられるそれとよく似ていることに。

 

きっかけは、高校時代からの友人・メガネ女子の一言でした。

 

「薬物依存の人は病人なんだよ」

 

ハッとしました。

 

そう、薬物依存「症」。犯罪であるだけではなく、いや犯罪である前に、これは病気。それも、完治しない病気。

 

その視点がまったく抜け落ちていたことに僕は愕然とし、なんて酷いことを今まで考えていたのかと恥ずかしくなり、偏見に無自覚だったことにただうなだれるしかありませんでした。

 

それ以降、アディクトの人たちの気持ちを想像すればするほど、自分と似ているように思ってきました。完治すると言いきれない病気を抱えてしまった絶望、社会から忌まわしい存在と見られる悲しさ、自業自得と非難されるくやしさ、内部スティグマのつらさ、そして周囲の理解が得られようと得られまいと病気と戦い続けなければならない孤独。

 

病気は「ただの病気」にさせてもらえず、当事者は「ただの病人」にさせてもらえない。

 

薬物依存症の人たちが、どうやって自分の中の偏見を克服し、どうやって世間の偏見に向き合っているのか、話を聞いてみたいと思いました。当事者から直接に話を聞いて、僕自身の視線がどう変容するのか確かめたいと思いました。

 

それは、他でもないHIV陽性者に向けられる視線がどんな状況でどう変わるのかを知りたいという気持ちにつながっていました。当事者の話を直接聞いて、偏見がなくなった!そんな経験を期待していたのかもしれません。
   

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僕は知らなかった

ところが、2時間のミーティングを終えて僕が実際に経験したのは、予想とはちがう心の動きでした。
 

そもそも、「薬もう絶対にやりません!」という悲壮な決意は、壇上から語られませんでした。3人のスピーカーさんたちは一様に「今でも薬やってたほうが楽しいなと思うんですけどね、ハハハ」と明るく笑い、でも薬をやらない今の生活が幸せだし、せっかく続いてるから薬を断ち続けている、と話していました。

 

そう、アディクトの人にとって重要なのは「決意」ではなく「継続」だったんです。だからこそ、反省や気合より、肩の力を抜くことが大事。僕の毎日の服薬を考えれば、すぐにわかることです。強い決意や悲壮感なんてない。日常に溶け込んでいるからこそ、一日も欠かさず続いている。

 

ちょっと想像すればすぐに気づくこと。そのちょっとを怠っていたがために、僕は気づけずにいたのでした。

 

薬物をやめ続ける理由も、別に「悪いことだから」ではありませんでした。薬を使わない毎日のほうが幸せだから、という至極シンプルな理由。

 

薬物を始めるまでのストーリーも、僕はもっと奇特で壮絶だと思っていました。ところが、実際に語られたのは、誰もが抱きそうなありふれた悲しさや孤独。本当に壮絶なのは、薬に操られ自力ではどうにもならなくなっていく、依存症になってからの苦しみのほうだったのです。

 

いかに自分が知らなかったか、いかに自分が考えようとしていなかったか。プログラムが終わり、机の上のアンケートを眺めながら、僕の頭にはそんな思いばかりがめぐりました。

 

ふと、素朴な疑問がわいてきました。そもそも薬物依存症の人は日本に何人くらいいるんだろう。薬をやめることができたとして、寿命はどのくらいなんだろう。

 

あっ..….。

 

この質問、僕はどこかで聞いたことがありました。

素朴な疑問

数か月前、僕がよく行くバブリングバーに、ケンジ君というスタッフさんが新しく入りました。

 

話してみたところ、どうやら彼は僕について事前情報が何もないようでした(他のスタッフのみんなが、それくらい特別ではない属性としてHIVを受け入れてくれている証左であり、ありがたいことです)。

 

二回目に会った時も、同じでした。

 

これじゃ、ケンジ君だけに隠してるみたいになっちゃうな...(他のスタッフさんはみんな、僕のHIVステータスを知っている)。僕は、バブリングのインタビューに出たことがあるとケンジ君に伝えました。

 

スマホを取り出し、ある画面をじっと眺めていたケンジ君は、しばらくすると顔を上げてこう言いました。

 

ぜんぜんそういう風に見えませんでした…。

  

後日彼は、陽性者のイメージについて、「具体的な絵こそないものの、見れば一目で区別がつく絶望的で暗い姿をイメージしていた」と話してくれました。 ごくフツーに見える目の前の人が陽性者だったことが、ケンジ君には衝撃だったようです。

 

そっかーハハハと照れ笑いをしていたら(これを照れ笑いと呼ぶのか定かではないけれど)、ケンジ君は続けてこんな質問を投げてきました。

 

HIVの人って、日本にどのくらいいるんすか?

 

全国で28000人、報告の3割以上が東京都に集中していると説明しながら、「そっか、こういうことが気になるんだ…」と新鮮な驚きを感じていると、一部始終を横で見ていた他の人が聞いてきました。

 

あの...、HIVにかかると、寿命ってどのくらいなんですか。

 

意外でした。漠然としていた陽性者像がリアリティのある隣人の姿に置き換わったとき、彼らが欲したのは「どうするとうつるのか」とか「あなたが感染した原因は」という恐怖ベースの情報ではなく、「そのタグを持った人の位置づけ」をやりなおすために必要な知識でした(ちなみに、治療が効いているHIV陽性者の寿命は、一般の方と変わりません ^^;)。

 

そう、この疑問。

 

三人のアディクトの人が話すのを聞いて、僕が抱いた疑問は、ケンジ君たちが抱いた疑問とまったく同じものでした。

 

それは、当事者が「カオナシ」だったとき湧いてこなかった疑問。隣人としてのリアリティが脈打ちはじめて生まれた、ごく基本的で、新鮮な疑問。

 

今日の僕は、きっとあの日のケンジ君でした。

知ると気づくの繰返し

偏見。

 

それはきっと、「目からウロコ」の驚きで、瞬時に消えてなくなるものではないんだと思います。

 

ウロコが落ちた後「あれ?じゃあこれはどうなんだ?」と新たな疑問が湧き、そこから新たな知識が手に入り、その知識で人の位置づけがやりなおされ、そこでまた気づきに出会う。そうやって、知ると気づくを繰り返しながらだんだんと偏見はちがう目線に変わっていくんだと思います。

 

「偏見に対する偏見」が、少しなくなったのかな。そう思ったら、オマケのようについてきたこの変化こそが、このプログラムに参加して得た何より大切なことのように思えました。

 

薬物依存症のこと、また話を聞けるといいな。

 

1番目の90:世界エイズデー

世の中には「〇〇の日」がごまんとある。その日が近づくとどこかで聞いたような食傷気味のスローガンが叫ばれる。がん検診に行きましょう。戦争は悲惨です。大切な子供たちに愛を。

 

そんなことわかってる。

 

僕らは忙しいのだ。すべてのデーに目を向けるなんて無理だし、結論わかりきっている話に興味がわくわけもない。

 

世界エイズデーは、僕にとってまさにそんな「デー」の一つだった。どうせ検査とコンドームの話でしょ?知ってるよ。そう言って一度も関心を寄せなかった。

 

そして結局、僕はHIVに感染した。

 

もちろん僕がエイズデーに関心を持っていたら感染しなかったのかと言われれば、それはわからない。ただ、初めてエイズデーに目を向けて、気づいたことがひとつある。

それは「デー」は「知る日」というより「考える日」だということ。

 

もし聞き飽きたメッセージが繰り返されているなら、それは訴えられている内容が未だ実現できずにいるという反証。がん検診に行こうと叫ばれつづけながらもあなたが一向に重い腰をあげないのは、どうしてなのか。がんデーには、それを考えてみる。

 

もし聞きなれないメッセージが発信されているなら、それはあなたの認識の何かがアップデートされていない証拠。今年の「世界こどもの日」のユニセフのテーマは「KidsTakeOver(子供が世界をジャックする)」。あなたが勝手に思い描いていたスローガンっぽいものと、何が違うのか。世界こどもの日には、それを考えてみる。

 

考え始めれば、どうしたって考える道具としての知識が必要になってくる。そのとき初めて、知識にアクセスすればいい。まあ、このあたりは、発信側もメッセージの示し方の工夫が必要なんだと思うけど。

 

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今日12月1日は「世界エイズデー」。

 

いろんな標語が発信されている中、あなたに「考えるデー」を過ごしていただけるきっかけとして、「90-90-90」という言葉を紹介したい。

 

「90-90-90」は、UNAIDSが掲げるHIV感染症の行動目標で、

 

  1. HIVを持っている人の90%が自分がHIVを持っていること(HIVステータス)を知っていて、
  2. その人たちの90%が持続的に治療にアクセスできていて、
  3. さらにその人たちの90%がHIVが血液から検出されない

 

という状態を世界レベルで作ることを目指す内容だ。設定された目標達成の期限は2020年、三年後である。

 

さて、あなたは現状をどう予想するだろう。今の世界や日本で「90-90-90」はどのくらい達成されていると思うだろう?

 

世界規模では、残念なことに3つとも目標には遠く及んでいない。1・2・3と番号が進むにつれて60%・50%・38%と達成率は落ちていく(これが何を表しているのか?を考えるのも、考えごたえがあるテーマだと思う)。

Source :90-90-90: treatment for all | UNAIDS

 

一方の日本では、2(持続的治療)と3(ウイルス抑制)は、余裕で達成できている。90を95に引き上げても、2番と3番はクリアできていると言う人さえいる。

 

つまり、いまの日本では

  • ひとたびHIV陽性であるとわかれば、ほぼすべての人が専門的な治療にアクセスしつづけられる体制が整っていて、
  • ひとたび治療にアクセスすれば、ほぼすべての人がウイルスが血液から検出されない状態になるほど有効な治療が提供されている

 

ということだ。予想は合っていただろうか。

 

※ ここまで読んで「HIVが検出されなくなるような治療がそんなに広く普及してるんだ!」 という点に驚いている人もいるだろう(2年前までの僕を含む)。そんなあなたは、ぜひその驚きを大切にしながら読み進めてほしい。

 

ここで、1番の90(自覚)に注目したい。今の日本では、最初の90だけが未達成だ。

 

どのくらい未達成なのか。最新の調査によると、自分のHIVステータスを知っている人は、陽性者全体の「80%程度」。つまり、HIVを持っている人の5人に1人が、その事実に気づいていない。

www9.nhk.or.jp

 

「自分がHIV陽性であることに気づいていない陽性者」の存在は、HIV感染予防を目指す社会にどんな影響を与えるのか。治療へのアクセス・ウイルス抑制の実現が極めてスムーズなのと対照的に、陽性者が「自分は陽性」と知ることが妨げられているのは、どうしてか。

 

日本はどうすれば1番目の90を達成できるのだろう。今年のエイズデーと週末、ぜひ一度考えてみてもらいたい。

 

考えにいきづまったとき参考になる記事を紹介しておく。あなたの考えを深めるのにきっと役立つ。

life.letibee.com

 

今年のエイズデーの国内スローガンは「UPDATE!エイズのイメージを変えよう」。ここまでお付き合いいただいたあなたなら、仮に僕の投げた問いに答えが見つかっていないとしても、実はとっくにこのスローガンを実践できていたりするのだと思う。

12月1日は「世界エイズデー」|厚生労働省

BPM-戦争を知らないHIV陽性者

この秋、僕はTOKYO AIDS WEEKS日本エイズ学会に初めて参加しました。

 

学会が初めてなのはともかく、TOKYO AIDS WEEKSまで初めてというのは都心に暮らすゲイとしてちょっとはずかしい話です。それは、病気への無関心というより、おそらくは社会への無関心でした。今さらでも自覚できてよかったのかもしれないけど。

 

参加したプログラムの中でひときわ強く印象に残ったのが、来春に日本公開予定のフランス映画「BPM」の試写会でした。BPMは、今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品です。創設初期のACT-UP Paris(HIV陽性者の支援団体)を舞台に、病と時代に翻弄されながらも声を上げ続けた人たちの生き様を描いています。

 

当時、エイズにはまだ治療がありませんでした。HIV感染はエイズ発病を意味し、発病は近い死を意味する、そんな時代でした。作品の中で「エイズは戦争」という言葉が幾度となく登場するのですが、それが決して誇張された表現ではない、本当に凄まじい時代。

 

エイズを食い止め、HIVを検出限界未満まで抑え込む多剤併用療法が確立したのは1996年のこと。それ以前の世の中にはHIVに感染した人の命を救う手立てがなく、本人も周囲も死の訪れを待つことしかできませんでした。映画の中でも、ACT-UPの若い仲間たちは医療からも社会からも見放されたまま一人、また一人と帰らぬ人となっていきます。

 

苦しむ人を前に医療者が何もできない状況なんてありえるのかと思いますが、当時は本当にそうだったようです。それはパリばかりではなく、ここ東京も同じでした。映画の設定と同じ時期に自らのパートナーさんをエイズで亡くした大塚隆史さんは、試写会後のトークで次のように言っていました。

 

「当時東京でいちばん知見が集まっていた病院に行ったんですけども、先生に言われました。できることは何もありません。ってね」

 

遅々として新薬を実用化させない製薬会社への憤り。有効な予防手段を講じない行政への苛立ち。無関心な社会への怒り。映画の中の当事者や支援者の置かれた状況はまさに戦争で、彼らを突き動かしているのは怒りでした。

 

そして、戦争のさなかの恋、セックス。

 

HIVが人と人を分断し、つないで、また分断していく。そんな様子が、低音の効いた4ビートのBGMに乗って静かに、赤裸々に描かれていました。

 

この映画は、HIV陽性であることを1年前に知ったばかりの僕をいろいろな意味で動揺させました。

 

映画の中で当事者たちが抱えていた生々しい恐怖と焦り、救いが見えない絶望と悲しみ。それは、治療も支援もあるいまを生きる僕が心の奥に潜ませている不安や恐怖を遠慮なくえぐり出すように迫ってきました。正直、映画を見ているのがとてもつらかったです。

 

そして、映画の中の状況と僕らがいま置かれた状況とのあいだの、あまりにも激しいギャップ。

 

毎日普通に会社に行って食事をして遊んで笑いながら暮らす僕は、本当に映画の中の彼らと同じ病気を持つ人間なのだろうか。

 

病院に行けば有効な治療が豊富に準備され、行政も製薬会社も僕らにサポーティブ。社会にも、関心を持ち正しく理解しようとアプローチしてくれる人がたくさんいる。

 

すべてが真逆です。

 

そんな恵まれた環境の中で、僕らは病気のことがバレないようにと、ただそれだけに必死になりながら生きています。当時、もっと生きたいと願いながら為す術もなく旅立っていった人たちは、今の僕らを見て何を思うだろう。僕らに何を言いたいだろう。

 

見終わった後も、ずっとそんなことを考えていました。 

 

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僕は、最近になってHIVを持つことを知った、言うなれば戦争の後に生まれた「戦後生まれ」です。

 

当時を知る人は、今の陽性者にこんな思いを抱くのではないでしょうか。あのときに比べれば本当に幸せだ。だから、みんな心穏やかに過ごせればそれがいちばんだと。

 

しかし、僕らにはいまがすべて。戦争との比較対象としてではなく、過去と切り離していまを見れば、戦後生まれの僕らにもきっと僕らの「怒り」があるはずです。それはきっと、先輩たちから引き継ぐものではない、僕たちの内部から沸き起こる現代の怒りです。

 

戦後生まれの役割と怒り。それを探し、そこから社会を変えていくことが、30年前に戦争でこの世を去った人たちに僕らが報告できることなのかもしれません。

 

BPMの日本での一般公開は、2018年3月の予定。ぜひたくさんの人に見てほしい作品です。

bpm-movie.jp

この映画の感想はいろいろな人が発信していますが、おススメは次の3つ。ぜひ合わせて読んでみてください。

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最後まで読んでくれてありがとう!

小さな町の小さな皮膚科

僕がHIV陽性の告知を受けたのは、今から1年半前。保健所でも、検査場でも、大病院でもない、町の小さな皮膚科医院でした。

 

簡易なスクリーニング検査と正確な確定検査の二回の検査を受けたので、本当の告知は二回目の確定検査の結果を聞いたときです。でも、HIVというものが初めて自分事の世界に現れたスクリーニング結果の告知は、明らかに僕の二番目の人生の幕開けでした。

 

ついさっきまで属していた社会から弾き飛ばされた

 

皮膚科に行ったのは、左胸に発疹ができたからでした。近所の皮膚科がそろって休診だったので、開いている皮膚科を探して訪問しました。

 

ひと目で「帯状疱疹」だと診断されました。簡単な問診、薬ですぐ治るという説明を受けた後、先生から「念のために」とHIV・梅毒の検査を勧められました。

 

そういえば10年近く受けてないな…。この機会に受けとくか。深く考えることもなく了承し、採血をすませました。

 

数日後。

 

薬のおかげで発疹はほぼ消えていました。今日でもう病院行くのも終わりかな、などと考えながら、会社に行く前に皮膚科に寄りました。

 

ひと通り診察を終えた先生は、おもむろに一枚のハガキを取り出しました。

 

「血液検査の結果なんですが、つい先ほど届きまして」 そうだ、すっかり忘れていた。


「梅毒は陰性なんですが。……HIVが擬陽性と出ています」

 

「はい。……え?」

 

最初は事態をのみこめず、しばらくしてから全身の血の気がスーッと引きました。頭の中が真っ白で、必死に状況を整理しようとするのですが、何をどう整理すればいいのか見当もつきません。


「まだ決まったわけではありません。確定検査を受けなければわかりませんので、大きな病院にこちらから紹介状を書きます」
「……先生。僕は……どうしたらいいんでしょう」
「とにかく、確定検査を受けてください。今の段階では何とも言えません」

 

先生は、大病院に行きなさいの一点張りでした。

 

突如ふりかかった、まったく予想していなかった一大事。全身を貫く「とんでもないことが起きてしまった」という戦慄。そのとき、目の前の先生しか僕には頼れる人がいませんでした。しかし、唯一の相談相手であるその人は、ここじゃない、他に行けと頑なに繰り返すばかり。


ふらふらとクリニックの外に出ると、ハンバーガーショップがありました。とにかく何か食べなくちゃ。中に入ってハンバーガーセットを頼みましたが、まったく口にする気になりません。

 

スマホを取り出し、「HIV」を検索しまくりました。冷静になろうとすればするほど、いろんな思いがぐちゃぐちゃになってあふれてきます。道で血を吐いて死んでしまうんじゃないか。石を投げつけられながら日陰者として一生を終えるしかないんだろうか。両親にはもう合わせる顔がない。せっかく健康に生んでくれたのに……。

 

窓の外には、いつもと変わらない街並みがありました。いつもと変わらないのに、その街は透明な膜で遮られた遠い別世界に思えました。ついさっきまで属していたと思っていた社会から、僕は弾き飛ばされたんだ。そう感じたとき、僕は「僕側の世界」に僕以外誰もいないことに気づきました。

  

HIVステータスを知ってから今までの月日の中で、いちばん何も知らず、いちばん不安で、そしていちばん一人ぼっちな時間でした。

 

僕の身体の中で起きている「何か」に誠実に向き合ってくれた先生

 

その後、僕はいろいろな人に出会うことになりますが、行く先々で「その皮膚科はすばらしい」と絶賛されました。

 

考えてみれば、皮膚科の先生は僕の皮膚症状を治せばいいのであって、帯状疱疹の薬を処方するだけでその任務は簡単に果たせたはずです。なぜ帯状疱疹を発症するほど体が弱ってしまったのか、そこまで踏み込んで突き止める責務は、皮膚科の先生におそらくは求められません。

 

原因を明らかにすべくHIV検査を勧めることにしても、先生にとっていいことは何もありません。いきなり性感染症を疑われた僕は気分を害するかもしれないし、結果が陰性だったら(その場合が多いんでしょうけど)患者さんの信頼を失うかもしれない。逆に予想が当たって結果が陽性だったら、それはそれでHIV陽性告知という、おそらくお医者さんならだれでも避けたい役回りが自分に回ってきてしまう。

 

先生の立場だけ考えれば、検査を勧めることで面倒ばかり起きそうです。

 

それでもあえて検査を勧めてくれたのは、僕の身体で起きている「何か」に先生が誠実に向き合ってくれたからに他なりません。そして、その真摯な姿勢に、僕の命は救われたのです。


もうひとつ気づいたこと。それは、あの日僕がHIV陽性者としてど素人だったなら、先生もまたHIV陽性を告知する医療者としてきっと初心者であっただろうということ。この病気に対応する経験が豊富ではないと自認した先生は、中途半端なサポートで状況を混乱させたりせず、すみやかに専門医に繋げることがいちばん誠実な対応だと判断したのでしょう。

 

見捨てられてなんかいなかった。見捨てずにいてくれたからこそ、いま僕はここで息をして、心臓を鼓動させていられる。先生にお礼が言いたい。元気に暮らしている姿を見てもらいたい。

 

何だかんだで忙しい告知後の日々を過ごしながら、僕はいつしかそう考えていました。

 

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やっと伝えられた気持ち

 

秋になり、体調も気持ちも落ち着いてきたころ、僕は皮膚科医院をふたたび訪れました。

 

「失礼します」
「こんにちは、ヒロトさん」

 

明るい診察室。笑顔の先生と看護師さん。こんな部屋で、こんな先生だったのか・・・。あの日の僕の記憶に変なバイアスがかかっていることがわかって、あらためて自分が受けたショックの大きさを実感しました。よく頑張ったな、あの日の自分。


「先生、ごぶさたしています。その節は、ほんとうにありがとうございました!」
「いえいえ。その後いかがですか」
「おかげさまであれからすぐ病院に行って、指標疾患を発症することもなく無事に治療を始められて、今はウイルス量も検出限界以下になりました」
「そうですか。CD4はどれくらいですか」 

 

なんと先生は、業界用語だと思われる「CD4」を知っていました。僕は、もう少し詳しく、あの日以降の僕のたどった経過を説明しました。


「そうですか。本当によかったですね」 説明を聞きながら、先生は何度も何度も、本当によかったと繰り返しました。


ずっと言えずにいた気持ちを、やっと言葉にして直接伝えられたこと。そして、元気な僕の姿を見て先生が嬉しそうに笑ってくれたこと。「ありがとう」「よかったね」そんな当たり前のやりとりが、無性に嬉しく感じられた時間でした。

 

1年半ぶりに聞けた一言

 

実は、この日以降、僕は1年間ほどこの皮膚科に通院することになります。

 

挨拶だけして帰るものアレなので何か薬でももらおうと思い、前から気になっていたイボを診てもらったら、定期的な処置が必要だとのことで、二週間ごとに通院することになったのです。途中から別の治療も始めてもらい、通院はさらに長期化しました。

 

そして先週、ついに診察の最終日を迎えました。

 

「ヒロトさん、これならもう大丈夫でしょう。最後の薬を出しますので、それをつけおわったら終了です」
「ほんとですか。ヤター!」

 

1年にわたって通い続けたこの小さなクリニックは、もはや僕には「告知を受けた場所」ではなく、「いつもの皮膚科」になっていました。待合室で小さな子供たちとにらめっこしたり、受付のお姉さんたちのおしゃべりを観察したり(僕はゲイなので、下心は何もないです)、先生に処置が痛いと駄々をこねてみたり、それを「痛くないですよ(笑)」とあっさりかわされてみたり・・・。皮膚科での時間は、僕の週末の日常にすっかり組み込まれていました。

 

もうここに来ることもないのか。そう思うと、ちょっと寂しい気がしました。HIV陽性者が「陽性の告知を受けた場所に来なくなるのが寂しい」っていうのもなかなか斜め上を行くシチュエーションだな。そう思うと、ちょっと可笑しくもありました。

 

「ヒロトさん」


診察室を出ようとすると、先生が僕を呼び止めました。


「何かあったら、またいつでも来て下さい」

 

それは、1年半前に僕が聞きたくて聞けなかった一言でした。ひょっとしたら、先生にとってもそれは、1年半前に僕に伝えられず心にわだかまっていた一言だったのかもしれません。


外に出てふと見ると、ハンバーガーショップがありました。そうか、長い第一幕がいま終わったんだな。ふとそんな思いが胸をよぎります。

 

歩いて駅前に出ると、大きなレッドリボンが見えました。奇しくも僕が初めてHIVに出会ったこの街で、次の第二幕がいま始まろうとしています。

 

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