BPM-戦争を知らないHIV陽性者
この秋、僕はTOKYO AIDS WEEKSと日本エイズ学会に初めて参加しました。
学会が初めてなのはともかく、TOKYO AIDS WEEKSまで初めてというのは都心に暮らすゲイとしてちょっとはずかしい話です。それは、病気への無関心というより、おそらくは社会への無関心でした。今さらでも自覚できてよかったのかもしれないけど。
参加したプログラムの中でひときわ強く印象に残ったのが、来春に日本公開予定のフランス映画「BPM」の試写会でした。BPMは、今年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞した作品です。創設初期のACT-UP Paris(HIV陽性者の支援団体)を舞台に、病と時代に翻弄されながらも声を上げ続けた人たちの生き様を描いています。
当時、エイズにはまだ治療がありませんでした。HIV感染はエイズ発病を意味し、発病は近い死を意味する、そんな時代でした。作品の中で「エイズは戦争」という言葉が幾度となく登場するのですが、それが決して誇張された表現ではない、本当に凄まじい時代。
エイズを食い止め、HIVを検出限界未満まで抑え込む多剤併用療法が確立したのは1996年のこと。それ以前の世の中にはHIVに感染した人の命を救う手立てがなく、本人も周囲も死の訪れを待つことしかできませんでした。映画の中でも、ACT-UPの若い仲間たちは医療からも社会からも見放されたまま一人、また一人と帰らぬ人となっていきます。
苦しむ人を前に医療者が何もできない状況なんてありえるのかと思いますが、当時は本当にそうだったようです。それはパリばかりではなく、ここ東京も同じでした。映画の設定と同じ時期に自らのパートナーさんをエイズで亡くした大塚隆史さんは、試写会後のトークで次のように言っていました。
「当時東京でいちばん知見が集まっていた病院に行ったんですけども、先生に言われました。できることは何もありません。ってね」
遅々として新薬を実用化させない製薬会社への憤り。有効な予防手段を講じない行政への苛立ち。無関心な社会への怒り。映画の中の当事者や支援者の置かれた状況はまさに戦争で、彼らを突き動かしているのは怒りでした。
そして、戦争のさなかの恋、セックス。
HIVが人と人を分断し、つないで、また分断していく。そんな様子が、低音の効いた4ビートのBGMに乗って静かに、赤裸々に描かれていました。
この映画は、HIV陽性であることを1年前に知ったばかりの僕をいろいろな意味で動揺させました。
映画の中で当事者たちが抱えていた生々しい恐怖と焦り、救いが見えない絶望と悲しみ。それは、治療も支援もあるいまを生きる僕が心の奥に潜ませている不安や恐怖を遠慮なくえぐり出すように迫ってきました。正直、映画を見ているのがとてもつらかったです。
そして、映画の中の状況と僕らがいま置かれた状況とのあいだの、あまりにも激しいギャップ。
毎日普通に会社に行って食事をして遊んで笑いながら暮らす僕は、本当に映画の中の彼らと同じ病気を持つ人間なのだろうか。
病院に行けば有効な治療が豊富に準備され、行政も製薬会社も僕らにサポーティブ。社会にも、関心を持ち正しく理解しようとアプローチしてくれる人がたくさんいる。
すべてが真逆です。
そんな恵まれた環境の中で、僕らは病気のことがバレないようにと、ただそれだけに必死になりながら生きています。当時、もっと生きたいと願いながら為す術もなく旅立っていった人たちは、今の僕らを見て何を思うだろう。僕らに何を言いたいだろう。
見終わった後も、ずっとそんなことを考えていました。
僕は、最近になってHIVを持つことを知った、言うなれば戦争の後に生まれた「戦後生まれ」です。
当時を知る人は、今の陽性者にこんな思いを抱くのではないでしょうか。あのときに比べれば本当に幸せだ。だから、みんな心穏やかに過ごせればそれがいちばんだと。
しかし、僕らにはいまがすべて。戦争との比較対象としてではなく、過去と切り離していまを見れば、戦後生まれの僕らにもきっと僕らの「怒り」があるはずです。それはきっと、先輩たちから引き継ぐものではない、僕たちの内部から沸き起こる現代の怒りです。
戦後生まれの役割と怒り。それを探し、そこから社会を変えていくことが、30年前に戦争でこの世を去った人たちに僕らが報告できることなのかもしれません。
BPMの日本での一般公開は、2018年3月の予定。ぜひたくさんの人に見てほしい作品です。
この映画の感想はいろいろな人が発信していますが、おススメは次の3つ。ぜひ合わせて読んでみてください。
- 隔数日刊─Daily Bullshit: 性と生と政の、聖なる映画が現前する
- 「私はエイズでパートナーを亡くした」来春公開の映画「BPM」上映会で語られた日本のHIV/エイズ - SOSHI BLOG
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