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あなたの隣の免疫不全系男子

新井先生とアライの話

「不可思議Wonderboy」というアーティストをご存知知だろうか。ポエトリーリーディングという、ラップの変型判のような音楽のパフォーマーなのだが、友人に教えられて以来すっかりはまっている。

 

一人また一人と仲間たちが社会に迎合していくなか、自分の夢を信じ追いつづける若者の孤独を鮮やかに歌い上げる不可思議さん。彼の無防備でみずみずしいメッセージは、熱い思いにフタをして生きる賢明な大人たちの胸にするどく突き刺さる。

 

あの頃って何にでもなれる気がしてたよなあ / いや実際頑張ればなんにでもなれたか / でもこうやっていろんなことが終わってくんだもんなって / いや始まってすらいないか

<不可思議Wonderboy 「Pellicule」>

 

先日、バブリングのトークイベントで中学校の国語教師である新井淑則先生の話を聞いた。シュッとした紳士的な身なり、よく響く声でユーモアたっぷりに話す姿はまさに先生然としていて、やっぱりプロは違うな…と感心しながらトークに耳を傾けた。

 

新井先生は目が見えない。

 

教職に就いて数年後に、網膜剥離で視力を失った新井先生。いちどは職を追われたが、10年をかけて再び中学校の教壇に立ったという。24時間テレビでもドラマとして取り上げられた話で、知っている人も多いだろう。

 

2時間にわたるトークには示唆深い話がてんこもりだったが、何より印象深かったのは新井先生が失意の底で教職への復帰を心に決めたときのエピソードだった。

 

目が見えなくなり家に引きこもって塞いでいた新井先生に、先輩の当事者は「あんま・鍼灸・マッサージ」の資格をとるよう勧める。「みんなそうやって頑張っている。君も頑張れ」と言われるが、新井先生にはその「頑張る」が自分事として感じられない。そんな中、後に恩師と仰ぐことになる弱視の教師に「新井先生も必ず教壇に戻れる」と言われ、自分が頑張るべきことはこれだと気づく。しかし、そのような前例はほとんどなかった。

 

この話に、僕は強い既視感というか、シンパシーのようなものを感じた。同じような経験が僕にもある。

 

自分がHIV陽性だと知って以降に出会った当事者のほとんどは、自分がポジティブであることを徹底的に隠して生きていた。そして、これからもバレないように「頑張ろう」と言う。

 

僕には、その「頑張る」がピンとこなかった。頑張るっていうのは、病気のことに劣等感を持たず、病気のことも話せる友人関係を持ち、オープンに仕事をして、恋愛もする、そんな日常を作ることだと思った。でもみんなは「そんなのは絶対に無理」と考えている様子だ。僕は戸惑い、寂しさを感じた。

 

同じ立場の人たちが語る努力に共感できない。自分が考える努力にも共感してもらえない。「目が見えなくなったらあんま師」と当事者までもが信じて疑わない状況で、新井先生もまた僕と同じような戸惑いや寂しさを感じたのではないだろうか。仮に僕が視力を失い「オレたちにはこれが相場だ」とあんま師の資格を勧められたら、僕もまた新井先生と同じような違和感を感じるような気がする。

 

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でも、その先は?周りとまったく違う方向を向いて、自分の夢を目指すために決意して立ち上がることが僕にできるだろうか。

 

正直、自信がない。

 

それは、他でもない今の僕の状況がそうだからだ。「隠すを頑張るなんてオカシイ」と言いながら、結局のところ大半の知人友人にHIVを隠して暮らしている。あたかも「僕の夢はこれじゃない」とうそぶきつつ、あんま師の勉強を黙々と続ける視覚障害者の人さながらだ。

 

僕は、すべてを伝えて社会から疎外されるのが怖い。

 

病気のせいで疎外されるのが怖いのではない。僕自身は、HIVを持っていることをただの病気のひとつ、それもそこまで騒ぐほどの病気ではないと思っている。でも、社会全体が、当事者まで巻き込んで「最強にとんでもない病気」だと信じ切っている中、大したことじゃないんだと正直に声をあげ「変人扱いされること」が怖いのだ。

 

「僕はとんでもない病気を持っていて、悩んでいて、でも前向きに生きようと頑張ってます」。そう発信してこそ非当事者も当事者も安心して受け止めてくれることを、僕は知っている。そして、そのように表明してこそ「すごいね、大変だね、頑張ろうね」と慈愛と励ましに満ちたレスポンスがスムーズに返ってくることも、僕は知っている。

 

当事者は、社会から疎外されない確証を得たいがために「悲惨なHIV陽性者像」を提供する。非当事者は、人格者としての憐れみの心を(その一瞬だけ)抱く喜びを得たいがために「悲惨なHIV陽性者」像を消費する。

 

この構図が、いまの日本で圧倒的に安定していることを、僕はイヤなほどよく知っている。だからこそ、「それコメディですよ?」と反論したら、本気でつまはじきにされそうで、怖いのだ。

 

僕は強くない。情けなくなるほど弱い。

 

では、新井先生は強かったのだろうか。

 

トークの中で、新井先生は「自分は強くない。むしろ弱い人間だ」と、再三にわたり強調していた。そして「教壇に戻ろう」と言ってくれた周りの人たちがいてくれたからこそ長い道のりを歩くことができたと語っていた。

 

健常者から当事者までもを巻き込んだ「視覚障害=あんま師」の固定観念の中にあって、新井先生の「思い」はマイノリティだった。その思いを抱き続ける道のりは、想像以上に孤独だっただろう。

 

だからこそ、その少数派たる思いに寄り添い、同じ方向を向いて一緒に歩んでくれた仲間たちの存在がとても大きかった。仮にご自身が言うように先生が本当に弱い人間だとしたら、その弱い新井先生までをも立ち上がらせるほどの大きな力を、孤独に寄り添った同伴者は与えてくれたのだ。

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アライ(Ally)という言葉を聞く。少数者に対する理解者という意味で使われ、僕もそう解釈していた。

 

しかし、実はこれは表層的な理解なのかもしれない。「マイノリティな属性」を理解し受け入れる人がアライなのではなく、背景にあるものが何であれ、その人の「マイノリティな思い」に寄り添う人こそがアライだとは言えないだろうか。

 

夢をめざす新井先生の孤独の傍らには、アライのみんながいた。そして、新井先生は自分の夢をかなえ、その事実を世間が知ることで、新井先生の思いを少数派せしめていた世間の固定観念にはヒビが入った。固定観念に飲み込まれていたすべての人に、変化がもたらされた。いまや、新井先生の思いはマイノリティではない。

 

あたらめて、僕の周りにどんなマイノリティな思い・孤独があるのか考えてみる。僕も、誰かの孤独に寄り添えるアライになろうと思った。同じように孤独の中に立つ一人の弱い人間として。

 

前述の不可思議Wonderboy君のパフォーマンスを見て、詩人の谷川俊太郎はこう評した。

 

イギリスの哲学者で“世の中には2種類の行為がある”と言った人がいてね、彼は“世の中のすべての行為を、Death Avoiding Behavior (死回避行為)とLiving Behavior (生命的行為)”に分けて説明したんだ。僕の解釈では、現代人の多くは生活優先のDeath Avoiding Behaviorで生きてしまっているんだけど、不可思議くんのラップはまさにLiving Behaviorを体現している。だから感じてしまうものがあるんじゃないかな。

From: Living Behavior 不可思議/wonderboy 人生の記録

 

あんま師というDeath Avoiding Behaviorを採らず、Living Behaviorを貫いた新井先生の歩みは、いまは亡き不可思議くんの叫びと、世代を超えてシンクロする。もし不可思議くんが生きていたら、新井先生のトーク聞いてほしかったな。

 

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新井先生の著書を買って読んでみた。中学生でも読めるように、わかりやすく書き下ろされている。そう。そもそも障害者の話って、大人だけが語る特別なイシューじゃない。僕が中学生のとき、こんな本があって、勧めてくれる大人がいてくれたらよかったのにな。

 

 

最後まで読んでくれてありがとう!